板垣信憲
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板垣 信憲(いたがき のぶのり)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。(※江戸時代に編纂された軍記物などでは板垣信里(のぶさと)と書かれることがある[1])
- ^ 「板垣信重(のぶのり)」の表記の転写の誤りから「信里」と書かれたもの。
- ^ 『坂名井家文書』によって、天文20年に板垣信憲・甘利昌忠の「両職」への在職が確認される。
- ^ 『甲陽軍鑑』には天文22年(1553年)、私怨により本郷八郎左衛門に殺害されたとあるが、『千野文書』の弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに板垣信憲の名前が見えるため、『甲陽軍鑑』の年暦については信頼できない。
- ^ 「関ヶ原の合戦で陣借りし、乾彦作の推挙によって板垣信方の遺児を召し抱えた」とする説は誤り。宇田友猪が、事実誤認のまま板垣の伝記(『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年)で紹介し、それが『国府村史』竹内英省編、昭和36年(1961年)12月発行に掲載された。昭和38年(1963年)司馬遼太郎が『功名が辻』を執筆するにあたって『国府村史』を参照したことによりこの誤りが広まったが、土佐藩の藩政期史料によれば、正信の仕官は天正18年10月7日(1590年11月4日)に遠江国掛川であり、乾彦作(乾和信)は、それより5年前の天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた近江長浜の大地震の際、一豊の娘・与祢姫を助けようとして夫婦共に圧死(「天正13年11月29日(1586年1月18日)於江州長浜宇内、大地震。山川転動裂壊家屋、顛潰長濱之御城殿崩、與禰姫様喪亡、御歳六歳。号光景妙円。是、見性院様御腹子也。此時、御家人乾彦作和信始数拾人死」『一豊公紀』)しているため、関ヶ原合戦の時に、正信を推挙することはあり得ない。推挙したのは和信の弟・乾和三である。また、正信を板垣信方の子とするのも誤り。正しくは板垣信憲の子である。(『板垣会』会報第1号)
- ^ 土佐藩政文書による。
- ^ 『遠碧軒記』黒川道祐著、1675年(延宝3年)による。
- ^ 『出雲路信直日記』、『門人誓紙』等による。
- ^ 『寛政重修諸家譜』による。
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