1913年4月19日、東京芝公園での板垣退助 像除幕式で撮影された板垣退助家族の写真。(後列左より板垣正実、宮地茂秋 、乾六一、乾正士 。前列左より板垣絹子 、板垣千代子)
乾 六一 (いぬい むいち、明治 30年(1897年 )11月14日 - 大正 7年(1918年 )12月6日 )は、伯爵 板垣退助 の五男[ 1] 。乾源五郎家の末代当主。母は福岡孝弟 子爵 の養女絹子(きぬこ) 。退助61歳の時の子ゆえ、「六一」と名づけられた。別名は板垣六一。
来歴
板垣退助が1868年 (慶応 4年)の戊辰戦争 の際、氏を「乾」から旧来の「板垣」に戻したため、乾の名を残さんがために次男正士 、五男六一を乾家の養子とした。
乾源五郎家は、1648年 (慶安 元年)に乾金右衛門正行の三男・乾友正(源五郎)が御小々姓として山内忠義 に召し出され、別家を立てて以来の由緒ある家系である。乾友正は嗣子を欠いて1689年 8月20日 (元禄2年7月6日)に病死し断絶していたため、第二百十回忌にあたる1898年 (明治31年)の2月23日 、板垣退助 は生後3ケ月の板垣六一に「源五郎友正死亡跡絶家再興」の届出をさせ「乾源五郎家」を再興させた。これは、先に退助の二男・正士を、乾正厚 の養子にさせたのと同じく、退助自身が、戊辰戦争の際に板垣に復姓したため、乾氏 の姓を残そうとした意図であったと思われる[ 2] 。しかし、のちには200年以上断絶していた家の再興より板垣家の名を広めることに重きを置き、乾六一に「乾源五郎家廃家」の届出をさせ、のち板垣家の戸籍に復籍させたため、退助の血縁筋で「乾」を名乗る家は乾正士 の家のみとなった。
1918年(大正7年)12月6日死去。法名は賢良院殿諦観自性居士。東京北品川の東海寺 高源院(現在品川神社 の裏側にある墓所)に葬られた。翌年7月に死去した退助の墓も同じ墓域にある。
^ 墓石 の記載による。
^ 『板垣会』会報第1号より
参考文献
『伯爵板垣退助先生年譜』憲政史編纂会収集文書
『御侍中先祖書系圖牒』高知県立図書館寄託文書
『無形板垣退助』高知新聞社 、1974年
宗家
∴板垣兼信 ?-1190
板垣頼重1190-?
板垣頼兼
板垣行頼
板垣長頼
板垣三郎左衛門
板垣三郎左衛門
板垣兼光
板垣播磨守
板垣松溪
板垣願阿彌
板垣善満坊?-1490
板垣備州1490-1515
板垣信泰 1515-1530
板垣信方 1530-1548
板垣信憲 1548-1557
板垣信安 1558-1579
板垣修理亮 1579-1600
板垣半右衛門1605-?
板垣平右衛門
板垣知貞1651-1704
板垣信精1704
板垣久五左衛門1704-?
板垣知素
板垣信房
板垣致知
信憲流
守正流
(正貫兄)板垣守正 1926-1951
板垣正明1951-2023
正直流
(正祐弟)板垣正直 1644-1688
乾正房 1689-1721
乾吉勝1722-1747
乾正英1747-1786
乾正壽1786-1829
乾正春 1829-1830
乾正厚 1831-1869
乾正士 1869-1941
乾一郎 1941-2000
高岡真理子2000-
友正流
(正祐弟)乾友正 1648-1689
(208年間断絶した家を絶家再興)
乾六一 1898-1903
(乾姓を絶家して板垣に復姓)無嗣断絶
土佐流
板垣喜右衛門1602-1631
板垣喜右衛門1631-1674
板垣喜右衛門1674-1738
板垣只平1738-1741
板垣宇助1741-1773
板垣喜助1773-1815
板垣惇平1815-1857
板垣堅助1857-1859
(弟)板垣高幸 1859-1885
板垣四十六郎1885-1945
伴内流
板垣伴内
板垣伴内
板垣甚内
板垣政次
佐々木政清
(弟)佐々木権右衛門
佐々木権右衛門
(養子)佐々木権右衛門
(養子)佐々木登政
板垣政純
板垣政徳
板垣政一
板垣賛造
板垣進吾
女子
征四郎流