木付鎮秀とは? わかりやすく解説

木付鎮秀(きつき しげひで) ????~1580

三郎左衛門 宗虎 紀伊入道
◇父:木付親諸 室:生地玄蕃安清女 子木付鎮之、鎮直
 豊後大友氏祖能直孫親重の末流加判衆も務めた重臣日向耳川の合戦において大敗した大友勢の殿軍務めて見事成し遂げた田原親貫大友氏謀反した際、その安岐城を攻めるが、奈多鎮基に背後から襲われ戦死

木付鎮秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/27 10:26 UTC 版)

 
木付鎮秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正8年(1580年
改名 鎮秀→宗虎(法名)
墓所 大分県国東市安岐町の心月寺前の松山
官位 美濃紀伊
主君 大友義鎮(宗麟)義統
氏族 木付氏
父母 父:木付親諸(鑑実)
兄弟 鎮秀、鎮之
生地安清娘
鎮直、女(大神鎮正室)
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木付 鎮秀(きつき しげひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友氏の家臣。木付氏15代当主。豊後国木付城主。

木付氏は大友親秀の六男木付親重を祖とする大友氏の庶流。

子の木付鎮直、鎮之と共に大友義鎮(宗麟)から偏諱を受けた。二老国衆の一人(二老は吉岡長増臼杵鑑速。国衆は木付鎮秀一萬田鑑実田原親宏朽網鑑康志賀親度、清田鑑述)。

天正6年(1578年)から大友義統の加判衆を務める。同年、耳川の戦い大友氏島津氏に大敗すると、殿を務めて賞される。

天正8年(1580年)、田原親貫の反乱に際して安岐城を攻めたが、奈多鎮基(奈多鑑基の嫡男)に背後を衝かれて弟の鎮之と共に討死した。 鎮秀の戦死後、嫡男の鎮直が家督を許されて木付氏を継承している。




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