輝弘の周防上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 05:30 UTC 版)
立花山城付近で毛利軍と大友軍の対立(多々良浜の戦い)が続く中、大友家臣の吉岡長増は、毛利氏を九州から撤退させるべく毛利軍の後方撹乱を狙った。少なくとも同年3月に大友氏から備前国浦上宗景に送られた書状で、輝弘の派兵を示唆する内容が見受けられる。そして、6月に尼子残党の尼子勝久・山中幸盛の出雲国侵入(尼子再興軍の雲州侵攻)に呼応して、山口へ大内輝弘を送り込むことを計画した。 大内氏再興の機会を得た大内輝弘は、豊後国から若林鎮興率いる大友水軍に護衛されて軍勢2000を率いて周防国へ渡航した。 永禄12年(1569年)10月11日、先だって7月と8月に威力偵察を行っていた吉敷郡南岸、秋穂浦・白松の海岸への上陸。大内一族の復帰を知った秋穂・岐波・白松・藤曲等の大内遺臣が大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増した。翌日の山口侵入時には6,000にまで膨らんだとされる。
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