立花道雪とは? わかりやすく解説

立花道雪

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戸次 鑑連/立花 道雪(べっき あきつら/たちばな どうせつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将豊後戦国大名大友氏家臣臼杵鑑速吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた[9]


注釈

  1. ^ 死の直前、道雪は「摂津入道」を称している[2]
  2. ^ 『北九州市史』によると、高橋鑑種の母は道雪の姉、すなわち鑑種の父・一万田親泰室。
  3. ^ 統景の祖父
  4. ^ 一説には天文19年(1550年)3月で千寿丸(鎮連)に家督を譲った。戦国大名城下町の移転と大名権利-豊後大友氏を事例として-
  5. ^ 豊前原田氏・香春社の大宮司職原田五郎義種一族の出身、筑前高祖山の原田親種とは別人。
  6. ^ 名は大鶴九郎、上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも。小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子、大津留(大鶴)左馬頭長清の跡を継ぐ。『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537~538
  7. ^ 名は大鶴弥助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留鎮正の三男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも式部少輔と称したことがあり、活躍年代も重なるのでよく同一人物と記されている。『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537
  8. ^ 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、長門守鎮通、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。『宗像記追考』荒平城 小田部氏 P.538~540
  9. ^ 元の名は大津留(大鶴)弾正鑑尚。実は大津留式部鎮忠の伯父。甥と同じ「鑑尚」と「弾正」の名を使用していたのでよく混同されている。大友氏から原田氏に寝返ると推測される。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  10. ^ 宗像氏貞の受領名や官位からみると「弾正」を使用することはなかったと確認された。一族の他人もしくは宗像賜姓を受ける家臣と推測される。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85『筑後将士軍談』では許斐の城主・宗像弾正忠と記述された。
  11. ^ 麻生民部丞。大友家の命令に従って宗像郡津屋崎(上松)城主となったが、のち秋月家に寝返った。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  12. ^ 勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川耳納連山の高峰、九十九折そして道路が未整備の鷹取山などを越えた[284]
  13. ^ 「天正十一年」(矢野 1972b, pp. 405–406)説、「天正十三年乙酉正月」(馬渡 1995, p. 718)説、「天正十二年九月」説(犬塚 1992b, pp. 342–343)がある。
  14. ^ 道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次(立花)右衛門大夫鎮実但馬了均のみとされる。のち立花宗茂が筑後柳川大名になった際、今古賀城主を務める人物で、関ヶ原の戦いの際に鍋島直茂の柳川侵攻(江上・八院の戦い)で防戦して、次男の親雄とともに戦死した(「慶長5年於筑後国八院戦死」とある)『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』。尚、この「八院合戦」戦死説でも右衛門太夫の戦死場所は八院ではなく、城島付近となっている。
  15. ^ 薦野増時の名代。『柳川藩叢書』・第一集によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死した。なお、のち11月下旬の三潴郡掃討戦の西牟田城で戦死した説が有力。『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、安部六弥太前廿八動之砌、於西牟田表分捕候、前日於石垣表も分捕仕候、両度之儀無比類候、参陣以来両家討補頸二百餘にて候、大利之段満足候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.139~140
  16. ^ 立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史・筑後将士軍談』などがあるが、戸次右衛門大夫『井樓纂聞 梅岳公遺事』 によるとこういう記述は明らかな誤記と指摘された。
  17. ^ 筑後草野氏・草野鑑員の子、名は家清とも。肥前の草野鎮永とは別々の人物。
  18. ^ その画像の写真は『柳川藩叢書』・第一集に掲載
  19. ^ 尚々、件之たねの事、すいふんとをほしめし候するをたのミ申候、おかしく候、先剋原左差遣候砌、礑致失念候間、態用飛脚候、今程花たん時分之由、人々申候間、去年之所江植置候て、詠申度候、隨分御秘蔵之種を五所ニ植候ほと可給候、頼申候、去年之ハ多過申候、為御心得候、恐々不淺、 二月廿八日 、増時 申玉へ 麟白軒道雪[324]
  20. ^ 尚々、十泉返書御内見候而、首尾可然様可被仰遣候矣、高野山清泰院与申聖、爰元へ罷越度之由候て、十時和泉守(惟長)所迄之一通令披見候、此七八ヶ年以前麓邊観進仕廻候由申候、我等者八幡候、致参會たる事無之候、彼一通之趣者我等をも知人之様書載候、おかしく候、如御存知我等者生得後生之儀者毛頭不存候、さ候間、高野聖なと知音之儀隙明候、哀爰元へ罷越候へかし、海ニさか付いたし候する物おと申居候、おかしく候、京都之儀、中國邊山東之事共、定而可有物語候へとも、頃赤馬へ逗留之由候間、能々稽古候而爰元にてもぬかされ候する間、為一真ハ有もしく候、所詮不入立か一之手にて候、万御心得候而可被仰遣候、十泉返事差遣候、是にも御静謐砌、下向之時預尋候へと計書載候、為御存知候、又吉河切紙致披見、則返進申候、宗歷被寄陣候儀者必定ニて候、後衆茂歴々着陣之由候、一動日限方角之儀未相聞候、色々面白調多々有之由候条、頓速之吉事茂可出来候哉、難計候、必二三日中重々直左右可有之候条、何様可申入候、恐々謹言、 五月十六日 、増時 御返申給へ 麟白軒道雪。[326]
  21. ^ 『柳川史話』によると、天文6年(1537年)6月5日、27歳の時と記述される。
  22. ^ 豊後戸次家時代には安東家忠、十時惟忠(十時右近太夫)、由布惟明(由布大炊介)、高野大膳で「戸次四天王」と称された。

出典

  1. ^ a b 『立花遺香』 P.18~19
  2. ^ a b 中野、穴井 2012, pp. 81.
  3. ^ 『豊前覚書』(二)豊州芸州御戦ひの次第 P.72~73
  4. ^ a b c 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
  5. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.89
  6. ^ a b 『旧柳川藩志』中卷 第十五章 寺社 第四節 三橋村 第一県社 高畑の三柱神社 469頁
  7. ^ 『旧柳川藩志』第三章 藩治 第六 柳河の立花家略系130頁
  8. ^ 『宗像郡誌.中編 宗像記追考』P.609
  9. ^ a b c 楠戸 2009, p. 163.
  10. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.65~66
  11. ^ a b c d 楠戸 2009, p. 160.
  12. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一)豊前馬ヶ嶽 大永六年三月二十日 P.1
  13. ^ 戸次鑑連初陣働
  14. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第七 戸次鑑連初陣之事 P.190
  15. ^ 『評註名将言行録』P.215~216
  16. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.23~24
  17. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二)肥後車返(車帰) 天文四年秋月日未詳 P.2
  18. ^ 中野、穴井 2012, pp. 7.
  19. ^ 車帰し軍之事「青年武将 戸次鑑連の激」
  20. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第八 車返軍之事 P.198
  21. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)70 東京太田文書 四 戸次鑑連書状 於今度古所山最前攻登、小者一人被疵候、粉骨之次第感悦候、必以時分可顕志候、恐々謹言、七月十九日 安東舍人允(連善)殿 P.642。
  22. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (5) 戸次鑑連(道雪)感状写 於今度古所山最前攻登、小者一人被疵候、粉骨之次第感悅候、必以時分可顕志候、恐々謹言、七月十九日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  23. ^ 中野、穴井 2012, pp. 9–10.
  24. ^ 中野、穴井 2012, pp. 10–12.
  25. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (8) 戸次鑑連(道雪)感状写 於今度木原碎手、被遂分捕候事、忠貞無比類、必追而可感之候、恐々謹言、十一月廿日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 339頁
  26. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1 安東家史料 二一 御書写 (26)戸次鑑連感状写 今度於木原碎手、被深手候事、忠旨無比類候、必々追而可感候、恐々謹言、十一月廿日 安東助八郎(連忠)殿 P.17。
  27. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 四九 戸次鑑連感状写 於今度木原被碎手被深手候御忠儀無比類候、銘々達上聞候条、定而直可被成(平出)御感候、為鑑連茂忘脚不可有之候、心緒必追而可申述候、恐々謹言、十一月廿日、小野大蔵少輔殿 信幸 89頁
  28. ^ a b c d 阿部・西村, p. 492.
  29. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.25
  30. ^ 中野、穴井 2012, pp. 12–13.
  31. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(五)豊後海邊(海部郡) 弘治二年六月三日 P.3
  32. ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳川人物小伝(四)高野大膳 P.900頁
  33. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 三 戸次鑑連感状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之刻、最前切入被疵被遂分捕候、高名無比類候、当時闕所依然々、不顕志候、口惜候、先夫丸壱人相加進候、恐々謹言、五月十九日 高野玄蕃允(大膳亮)殿 P.314頁
  34. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 八 戸次鑑連感状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之刻、最前切入被遂分捕候、粉骨之次第、高名無比類、為無足辛労之段、曾而無忘卻候、必闕所次第一所可申談候、其間之儀、月充申付候由、存知候、恐々謹言、五月廿八日 高野九郎兵衛大尉 P.314頁
  35. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118由布文書 (5) 戸次鑑連(道雪)知行預ヶ状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之砌、最前切入、遂分捕被疵候、粉骨感悅候、近年度々被致分捕、殊数ヶ所被疵候事、忠貞無比類候、當時闕地等依無差儀、然々不顕志由、口惜候、先以緒方庄之内小迴四貫分之事預進之候、可有知行候、恐々謹言、弘治弐年辰丙九月四日 由布源五左衛門尉殿 雪下事 339頁
  36. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1 安東家史料 二二 御書之写 (3)戸次鑑連知行預状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之砌、最前切入被疵候粉骨、感悦候、近年度々於所々在々先立被尽辛労、数ヶ所被疵候事、忠貞無比類候、當時闕地等依無差儀然々不顕志候、先以宇目村下河内之内三貫分之事預進候、可有知行候、恐々謹言 弘治二年丙申九月四日 安東助八郎(連忠)殿 P.19。
  37. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第八 秋月文種自害附種実没落之事 P.207~208
  38. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (40) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度秋月文種於宅所最前切入、剩被疵粉骨之次第、高名無比類、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月七日、 後藤市彌太(種長)殿 P.564。
  39. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)70 東京太田文書 三 戸次鑑連書状 今度秋月文種於宅所最前切入、剩被疵候、粉骨之次第高名無比類候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月七日 安東助八郎(連忠)殿 P.642。
  40. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏家文書 附・安東家文書 八 戸次鑑連感状写 今度秋月文種於宅所、最前切入、剩被疵候、粉骨之次第高名無比類候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月七日 安東又次郎(連之)殿 P.299頁
  41. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (4) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度秋月文種於宅所最前切入、剩数ヶ所被深手、粉骨之次第高名無比類候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月十一日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  42. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.25~26
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  44. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(六)筑前古所山 弘治三年七月八日 P.3~4
  45. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (41) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度於筑紫宅所被勵粉骨、殊被疵之忠貞之次第、感悦無極候、必以時分可顕志之、恐々謹言、八月廿三日、後藤市彌太(種長)殿 564頁
  46. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (6) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度於筑紫宅所、別而被勵粉骨、数ヶ所被疵候、忠貞之次第、感悅無極候、必以時分可顕志候、恐々謹言、八月二十三日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  47. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)70 東京太田文書 六 戸次鑑連感状 今度於筑紫宅所、別而被勵粉骨、数ヶ所被疵候、忠貞之次第、感悦無極候、必以時分可顕志候、恐々謹言、八月廿三日、安東舍人允(連善)殿 P.643。
  48. ^ 吉永正春『筑前戦国史 p.169~170
  49. ^ 許斐山城の戦い
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  54. ^ 中野、穴井 2012, pp. 16.
  55. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第八 豊前国所々合戦之事 P.209~210
  56. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118由布文書(10)戸次鑑連感状写 永祿五年七月十三日於大里津柳浦合戦之刻、被碎手候之趣誠驚目候、剩被疵候忠儀無比類候、必闕所次第可顕志候、恐々謹言、七月廿四日 由布源五兵衛尉殿雪下(惟信)339頁
  57. ^ 『福岡県史資料. 第9輯』[1]
  58. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)由布雪下 862頁
  59. ^ 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(二十)由布惟信小伝 252・253頁
  60. ^ 萩藩閥閲録』卷六十一 桑原文書 小原隆言書状 去十四日至門司表敵相動候處、頓被漕渡及防戦、依御馳走敵引退由候、御心懸之次第無申計候、則市川(経好)殿え注進申候、御座所えも令言上、定而直可被仰出候、先以御辛労之通令申候、無案内之故無音申候、永々御滞留候条自然相応之儀蒙仰、不可有疎略候、恐々謹言 永祿五年七月十七日 小原隆言 在判
  61. ^ a b c d e f g h i 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲状』358頁
  62. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏家文書 附・安東家文書 七 戸次鑑連感状写 前十三於大里津柳浦合戦之刻、被砕手候之趣、誠驚目忠貞無比類候、必闕所次第可顕志候、恐々謹言、十月廿四日 安東市允(常治)殿 P.299頁
  63. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1安東家史料 (29)戸次鑑連感状写 永祿五年十月十三日大里津柳浦合戦之刻、被砕手候之趣、誠驚目忠儀無比類候、必闕所次第可顕志候、恐々謹言、十月廿八日 安東舎人允殿(連善)17頁
  64. ^ 中野、穴井 2012, pp. 18.
  65. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 二四 大友宗麟書状 前十三門司表所々手仕被任所存候處、於大里敵浮合之条、遂合戦、敵数多討捕、被得大利之由、預注進候、祝着候、殊親類被官分捕、就中手負多々有之由候、寔忠儀無比類候、必銘々可賀之候、将又田北紹鉄、豊饒弾正忠軍労之段、令承知候、弥被申談、堅固之才覚冀存候、今度従最前、鑑連別而御馳走之次第、永々不可有忘却候、取鎮何樣一段賀可申候、恐々謹言 十月十七日 戸次伯耆守殿 P.344。
  66. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一〇 大友宗麟書状 今度於大里表、自身被砕手粉骨之儀無比類候、寔近年如此之忠儀珍敷候条、自他國之覚満足候、殊親類被官、或者被疵、或者分捕戦死之由、感悦無極候、弥被申進、忠貞之御覚悟頼存候、先々為祝儀、刀一腰進之候、多年秘蔵候之条、別而自愛肝要候、必帰陣之刻、以面可賀申之旨、猶松崎左京亮申含候、恐々謹言 十月廿八日 戸次伯耆守殿 P.340。
  67. ^ 『吉弘文書』永祿五年十月二十日大友宗麟書状(大友宗麟資料集)戸次鑑連・吉弘鑑理十三日大里合戦の戦功や苦労を賞す。『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 四 大友宗麟書状 前十三門司表所々發向之儀、堅固被申付候故、合戦被得大利之段、分捕・手負之着到銘々預注進候条、感悦無極之段、以袖判申遣候、各寒中辛労之段、至陳衆中能々相心得可被申候、何様別而可賀之候、鑑連・鑑理今度夜白御苦労之次第、必以面可申候、恐々謹言 十月廿日 吉弘左近大夫(鑑理)殿 戸次伯耆守(鑑連)殿 P.399。
  68. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.27~28
  69. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突 松山城の攻防(『浦文書』・『萩藩閥閲録』) [2]
  70. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.26~27
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  72. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三 足利義輝御内書 當國与藝州鉾楯之儀、於今同篇之由、近此不可然候、閣是非、可和談旨遣内書候、為其聖護院門跡愚庵下向候、無相違調候樣、對義鎮急度可加意見事肝要候、猶晴光可申候也、正月廿七日 戸次伯耆守とのへ P.339。
  73. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四 大館晴光副状 貴國与藝州鉾楯之段、無盡期条、不可然旨上意候、此砌被閣是非、御和談可為肝要候間、各宿老中被相談、御請御申候樣、可有御馳走候、為其被成御内書、久我入道殿御下向候、此等之趣相心得可申由、被仰出候、恐々謹言、正月廿七日 戸次伯耆守殿 P.339。
  74. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 二 聖護院道澄書状 就豊藝和平之儀 上意旨以日乗上人并連寿坊、令申候処、懇報本望候、則令披露候、何邊被差越人躰可被仰噯間、於鉾楯者不可然候由、重而御内書如此候、宜被加分別事肝要候、猶長頼・光政可申候也、六月廿八日 戸次伯耆守とのへ P.338。
  75. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.29
  76. ^ 中野、穴井 2012, pp. 16–19.
  77. ^ 『柳川史話』第一卷 人物篇(其の一)1 道雪公の片麟 P.3~4
  78. ^ 桑田 2016, pp. 71.
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  80. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 大友義鎮筑後国退治之事、下田城責堤貞元降参之事 P.217~222
  81. ^ 中野、穴井 2012, pp. 21–22.
  82. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 二 戸次鑑連感状写 今度立花表合戦之刻、抽粉骨、分捕高名無比類候、其上与力被官中、或分捕、或被疵之衆、銘々着到令披見、感入候、取静一所可申談候、恐々謹言、四月廿七日 高野大膳亮殿 P.313頁
  83. ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)由布雪下 P.863頁
  84. ^ 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(二十)由布惟信小伝 252・254頁
  85. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 立花城度々合戦之事 P.224~225
  86. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(七)筑前寶滿山 永禄十年七月七日 P.4
  87. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.31~34
  88. ^ 中野、穴井 2012, pp. 22–23.
  89. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 高橋三河守野心之事、斎藤鎮実攻筑紫広門附広門降参之事 P.234~240
  90. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.34~35
  91. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(八)筑前瓜生野 永禄十年八月十四日 P.5
  92. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一三 大友宗麟書状 追而申候、今度之合戦別而被盡粉骨、舍弟中務少輔(鑑方)・同兵部少輔(鑑比)・刑部少輔(親繁)・隼人佐(親宗)・右京亮(親久)、其外家中之仁等、戦死之由承候、鑑連御朦氣令推察候、就中隼人佐事、此節可有同陳之由承候之条、雇かし申候之處、結句立用候、不便之儀候、于今ハ雖不入儀候、其砌頻抑留可申物をと申事候、雖然連無恙候之条、宗麟安堵難盡筆紙候、弥至彼子孫被加諫被取立候ハ、如何程も可有之之条、於于今ハ可被散愁霧候、此方氣仕之段過校量候、殊如風聞ハ、至山隈在陣之由承候、尤以肝要候、先陳通路等然々候ハねは笑止之儀候条、雖無申迄候、先陳又従当陳日田玖珠之通道輙樣才覚専候、前日如申候、人数等可入砌候間、一勢可差立哉之由申候キ、急度加勢之儀不可有油断候、此度之弓箭大綱之儀候、此節作外聞候ハねハ、永々当家之失行事候、相構なく三人之事者可有堅固事所希候、さて秋月振舞之事、無念中々不及申候、宗麟鬱憤之儀、猶以不浅候、何樣可遂本望事不可有別儀候、殊更筑後衆歴々戦死之由候、是又朦氣深重候、彼飛脚申分者、三池源十郎、田尻中務太輔事、其夜於鑑連同所心懸依感心、至彼両人鑑連着料一腰遣之由、承候、案中候、定而武具等可為大望候哉、雖不然々候、自然之時之用所と存、誘置候、若用所もやと存、打物一腰進之候、金あハひ大かたに候すると存候、御秘蔵者可為満足候、濃々雖申度候、彼飛脚差急帰遣候間、不細書候、一両日中態可差遣一人之条、其境節可申之趣、猶宗鳳可申候、恐々謹言、 九月八日 戸次伯耆守殿 P.341。
  93. ^ 『九州諸将軍記』、『筑前国続風土記』による。
  94. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.35~38
  95. ^ 中野、穴井 2012, pp. 23–24.
  96. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(九)筑前休松 永禄十年九月三日 P.5~7
  97. ^ 休松の戦い(休山茄子城合戦)戸次家中戦死者の眞相
  98. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 秋月城軍之事、休松軍之事 P.240~243
  99. ^ 吉永正春『筑前戦国史』休松の合戦 p.36~41
  100. ^ 桑田 2016, pp. 50-55、72.
  101. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)119 由布(功)家文書 六 大友宗麟袖判軍忠一見状 永禄十一年七月四日立花鑑載被討果、彼城落去之砌、戸次伯耆守鑑連手之衆或分捕被疵粉骨、或戦死忠儀之次第、着到銘々加披見訖 P.354~357。
  102. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 二二 大友宗麟書状 前四立花城落去之通、預注進候、鑑連・鑑理、忠儀之段者不及申候、諸軍之粉骨、無比類候、如此之嶮難、輙挫候事、他邦之覚、外聞、不可過之候、然者彼城普請等、雖無申迄候、諸勢被申諫、早々可被取誘事、頼存候、彼山之事、於其堺者第一之儀候間、則時人数差籠、堅固可申付覚悟候、各辛労之儀、必以使節、諸軍忠貞之次第、可申遣候、先以従両人能々可被申觸候、殊怒留湯主殿助事、急速可差下候、各別而可被添心事、可為祝着之段、相心得可被申候、為御存知候、恐々謹言、 七月九日 吉弘左近大夫殿 戸次伯耆守殿 P.344。
  103. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一一 大友宗麟書状 以小野弾介・清松内蔵助、条々承候之趣、得其意、何茂調進之候、諸軍被申進、弥堅固之才覚肝要候、今度至立花被取詰候之砌、比山嶮難之条、氣仕千萬存候處、賢略之行等無油断故、無程被取崩、結句於道待、鑑載被討留、頸到来、大慶本望候、彼悪党落口等迄堅依被申付候、不抜足候之事、敵方之聞、喜悦候、如此之調、晝夜之御辛労、不及申候、猶吉岡越前入道可申候、恐々謹言、 七月廿三日 吉弘左近大夫殿 戸次伯耆守殿 P.340。
  104. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一四 大友宗麟書状 度々如申候、今度立花城之事、別而依被励粉骨、立花鑑載其外数多被討捕、彼城輙屬案中候、寔御忠貞無比類候、此等之儀為可申、染筆候、弥堅固之才覚可為祝着候、猶大津留主税助申含候、恐々謹言、 八月七日 戸次伯耆守殿 P.341。
  105. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.42~44
  106. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一〇)筑前立花山 永禄十一年七月四日 P.7
  107. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.74
  108. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三一 大友宗麟軍忠一見状 永禄十一年七月廿三日、寶満之者共差下候之刻、於宇美、河内、戸次伯耆守鑑連手之衆、分捕高名之次第着到、銘々加披見畢、 P.346。
  109. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.44~45
  110. ^ 中野、穴井 2012, pp. 24–25.
  111. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 立花鑑載野心付葦屋合戦之事 P.244~247
  112. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一一)筑前生の松原 永禄十一年八月二~五日 P.7~8
  113. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.45~47
  114. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 秋月種実降参之事 P.247
  115. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.46
  116. ^ 中野、穴井 2012, pp. 25.
  117. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.48~50
  118. ^ 『豊前覚書』(一)宗麟屋形樣筑後高良山まで御出張成され、肥前御発向され候次第 P.66~68
  119. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 大友宗麟攻龍造寺兩家遂調和付江上貞種義死之事 P.249~252
  120. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 中國勢攻立花城付大友勢後詰之事 P.252~255
  121. ^ 『福岡県史資料. 第4輯 』立花文書 [3]
  122. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一二)筑前多々良濱 永禄十二年五月十八日 P.8~9
  123. ^ 多々良川の戦い 戸次鑑連の奮戦
  124. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三二 大友宗麟軍忠一見状 永禄十二年五月十八日、立花表於敵陣、長尾岸渥防戦之砌、戸次伯耆守鑑連親類・与力・被官、或分捕高名被疵、或戦死之着到、銘々加披見訖、 P.346~348。
  125. ^ 桑田 2016, pp. 63–66.
  126. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十 筑前多々良浜接戦之事 P.257~261
  127. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.55~62
  128. ^ 中野、穴井 2012, pp. 25–26.
  129. ^ 『豊前覚書』(二)豊州芸州御戦ひの次第 P.68~73
  130. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十 中國勢立花退陣之事 P.261~265
  131. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏家文書 附・安東家文書 一二 戸次鑑連知行預ヶ状 近年每陳之軍忠、就中今度於九峯被砕手候趣候、驚目候、必以時分可顕志候、先々緒方庄之内五百貫預置候、可有存知候、恐々謹言、十二月十三日 安東市允(常治)殿 P.300頁
  132. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.37
  133. ^ a b 『筑後将士軍談』 卷之第十 高橋鑑種降参付高橋家別立之事 P.265~268
  134. ^ 『豊前覚書』(二)豊州芸州御戦ひの次第 P.74
  135. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.62
  136. ^ 『豊前覚書』(二)豊州芸州御戦ひの次第 P.74~75
  137. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.68
  138. ^ 川副 2016, pp. 193–194.
  139. ^ 『豊前覚書』(三)芸州衆御退治成され候てより筑前一国鑑連樣御守護成され候間の次第 P.78~80
  140. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十 戸次鑑連筑前國守護職之事 P.276~277
  141. ^ 中野、穴井 2012, pp. 30–34.
  142. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.63~64
  143. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94
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  145. ^ 吉永正春『筑前戦国史』柴田川の戦い p.103~106
  146. ^ a b 中野、穴井 2012, pp. 45.
  147. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.81~82
  148. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.83
  149. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一四)筑前宇美並障子嶽之間 天正六年十二月十一~十三日 P.9~10
  150. ^ 中野 2001, pp. 6.
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  152. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.106~109
  153. ^ 中野、穴井 2012, pp. 54.
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  155. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十一 岩屋合戦関内記勇戦之事 P.299~300
  156. ^ a b c 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85
  157. ^ a b 吉永正春『筑前戦国史』 p.109~110
  158. ^ a b 二日市の戦い
  159. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一五)筑前鍬摺 天正七年 三月十三日 P.10
  160. ^ a b c 『筑後将士軍談』 卷之第十二 豊後勢與秋月筑紫挑戦之事 P.317
  161. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
  162. ^ a b c 安楽平落城 筑前大友五城
  163. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (45) 戸次道雪感状写 今度於吉川最前被砕手被疵、高名案中、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、四月廿七日 後藤市彌太(連種)殿 P.556。
  164. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・「旧柳川藩誌」十時文書 二 戸次道雪感状写 今度於吉川、最前被碎手、被疵候、高名案中候、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、四月廿七日 十時摂津守(連貞)殿 P.415
  165. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1 安東家史料 二一 御書写 (33)戸次道雪感状写 去ル十八日於鳥飼村其方僕従飼郎兵衛砕手、分捕之由、感悦無極候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月廿八日 安東常陸入道(連善)殿 P.18。
  166. ^ a b c d e 中野、穴井 2012, pp. 47.
  167. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.86~87
  168. ^ a b 吉永正春『筑前戦国史』 p.120~127
  169. ^ a b c d 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.103~104
  170. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.119
  171. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1 安東家史料 二一 御書写 (32)戸次道雪感状写 前之十四日於生松原合戦之刻、別而依被勵粉骨、僕従弥十郎分捕、同刀疵被数ヶ所候、高名忠節之段、感悦至極侯、必於配當砌者最前可顕志候、恐々謹言、八月廿六日 安東常陸介(連善)殿 P.18。
  172. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏家文書 附・安東家文書 一三 戸次道雪感状 前之十四日於生松原合戦之刻、別而依被砕手、僕従弥七郎戦死候、忠貞之次第感悦候、必追而一稜可顕其志候、恐々謹言、八月廿六日 安東主税介(連信)殿 P.300頁
  173. ^ 中野、穴井 2012, pp. 46–47.
  174. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.88
  175. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.86
  176. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一七)筑前柑子嶽 天正七年八月十四日 P.10
  177. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.119~120
  178. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一六)筑前箱崎 天正七年 八月日未詳 P.10
  179. ^ 『筑後将士軍談』卷之第十二 立花道雪與宗像等合戦付麻生生害之事 P.317~318
  180. ^ 中野、穴井 2012, pp. 55.
  181. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 大鶴小田部戦死之事 P.322
  182. ^ 宗像記追考 P.538~540
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  184. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 道雪紹雲誅原田鑑尚事 P.318~319
  185. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.89~92
  186. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一八)筑前高祖 天正九年 九月 P.11
  187. ^ 大友興廃記、戸次軍談の伝える「生の松原合戦」
  188. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324~325
  189. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.93
  190. ^ a b c 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.88
  191. ^ 柑子岳城争奪戦 筑前大友五城
  192. ^ a b 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.94~95
  193. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.125~127
  194. ^ a b c 鷲ケ岳城 筑前大友五城
  195. ^ a b 『筑後将士軍談』 卷之第十二 高橋秋月挑戦之事 P.321
  196. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.96
  197. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.96~97
  198. ^ 『北肥戦誌』
  199. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十一 龍造寺筑前國出張付大友義統家督之事 P.297~299
  200. ^ 猫城合戦(福岡県中間市上底井野)「森鎮実不覚、討ち死多数」
  201. ^ 桑田 2016, pp. 231.
  202. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』補遺 井手口 御感状書出之写 前之廿六於穂波表別而被砕手、黒瀬治部討捕分捕高名感悦無極候、毎々粉骨之次第無比類候、必配當砌可顕志候、恐々謹言 九月晦日 道雪樣御判 井手口壱岐守(盛高)殿 P.467
  203. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.106~109
  204. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.132~137
  205. ^ a b 龍ヶ城夜襲之事「岩屋城結束強化の契機となった。北原鎮久の誅殺」
  206. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 北原種興誘討秋月勢事 P.329~330
  207. ^ 『大友興廃記』筑前國岩屋城責事付高橋紹運武略之事
  208. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.115~117
  209. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.139~141
  210. ^ 『戸次軍談』『橘山遺事』『陰徳太平記』
  211. ^ a b 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324
  212. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.137~138
  213. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.121
  214. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.87~88
  215. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一九)筑前観世音寺口 天正九年 七月二十七日 P.11
  216. ^ 『柳河享保八年藩士系図・上』竹迫 P.168
  217. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一 戸次道雪感状 昨日廿七宰府於観世音寺口、増時僕従神五・吉徳砕手被疵之由候、感悅無極候、必可達上聞候、為愚老以時分何樣賀之可申候、恐々謹言、七月廿八日 薦野左近大夫殿(増時) P.225
  218. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)52 竹迫文書 四 戸次道雪知行預ヶ状写 昨日廿七宰府於観世音寺口親父五郎兵衛尉(統種)戦死、高名忠節難盡紙面候、併愚老力落無是非候、必随而可達(平出)上聞之条、御感不可有餘儀候、仍為家恩於郡中三町分之坪付有別紙事預進之候、可有知行候、恐々謹言、七月廿八日 竹迫龍寿(虎種) P.293。
  219. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (48) 戸次道雪書状写 猶々、其元無油断勤番肝要候、一、昨日者早々越山、乍案中祝着候、併真労不及申候、其地江無易儀候哉、殊高鳥居へ責被合候由、肝要候、陣所等之儀、増時被得指南可然様可申談候、仍廣重事昨日同心候哉、心懸之次第悦喜申候、各着陣候ハ、、爰許へも用事多有之儀候間、廣重事者早々帰陣肝要候、恐々謹言、九月三日、 後藤市彌太(連種)殿 P.565。
  220. ^ 『高鍋町史』 附年表
  221. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.127~129
  222. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.104~105
  223. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126~128
  224. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.88~89
  225. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二〇)筑前潤野原 天正九年 十一月六日 P.12
  226. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.138~139
  227. ^ 中野、穴井 2012, pp. 58–59.
  228. ^ 石坂の戦い 八木山峠(福岡県飯塚市)
  229. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 穂波合戦之事 P.353~354
  230. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三三 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月六日、於穂波表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、加披見訖、 P.348~351。
  231. ^ 桑田 2016, pp. 164–465.
  232. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.351~353
  233. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.117~122
  234. ^ 『筑前國續風土記』 卷之第二十六 古城古戦場 三 鞍手郡 小金原 P.6~18
  235. ^ 『立花遺香』 P.13~15
  236. ^ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』 本書第十六 小金原合戦之事 P.622~626
  237. ^ 小金原の戦い「立花道雪激怒」「宗像氏貞苦悩」
  238. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.90~92
  239. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二一)筑前清水原 天正九年 十一月十三日 P.12
  240. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.155~163
  241. ^ 中野、穴井 2012, pp. 59-60、63.
  242. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、P.351~357。
  243. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122
  244. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.92
  245. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 小金原合戦之事 P.353
  246. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.122~123
  247. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.163
  248. ^ 『宗像郡誌. 中編 宗像記追考』本書第十六 小金原合戦之事 P.628~629
  249. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.124
  250. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二二)筑前岩門庄久邊野 天正十年 四月十六日 P.12
  251. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.165~167
  252. ^ a b 中野、穴井 2012, pp. 64.
  253. ^ 吉永正春『筑前戦国史』p.167
  254. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126
  255. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.167~168
  256. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十四 高橋紹運取返米山付統虎初陣石垣山合戦之事 P.371
  257. ^ a b 中野、穴井 2012, pp. 59.
  258. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)78 米多比家文書 三一 戸次道雪・統虎(宗茂)連署感状 前之廿二於宗像表別而依被砕御手、郎従三輪又次郎・水上小次郎・同僕従善九郎被疵候、高名感悅無極候、必以時分一稜賀之可申候、恐々謹言、十二月廿八日 米多比新蔵人(鎮久)殿 P.749。
  259. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.168
  260. ^ a b 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.128
  261. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.123~124
  262. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.164~165
  263. ^ a b 許斐山城の戦い「八並村吉原口の戦い」:天正11年3月15~16日
  264. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二三)筑前那珂表 天正十一年 四月八日 P.13
  265. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.128~129
  266. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.164~165、 p.174~175
  267. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十四 筑紫広門燒岩屋城付屋山防禦之事 P.385~386
  268. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.129~130
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  289. ^ 『豊前覚書』(六)道雪樣紹運樣敵地を御切り通り黒木高良山御陣成され候次第 P.96
  290. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、両人以参陣當陣衆申談、前廿五至河堺表(川崎)大蔵山(大籠)寄陣、同廿八下筑後表従両口相動、中口者縮坂東寺・西牟田、下口者折地・小嶋(古島)・水田表・簗河(柳川)近邊迄雖相動候、敵者一人茂不出合候、佐賀之者共入目之儀、以是可有御黨候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
  291. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、黒木事、至紹運・道雪種々詫言候、一昨日朔日猫尾属御案利候、為人質黒木伊豆守宗宅罷出候、以其響高牟礼入番之者共火懸、方々落行候、則時人数差遣、普請堅固申付、一衆差籠候、 (後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。
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  295. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (53) 大友義統感状写 前九於柳川表其方僕從市郎分捕高名之由、忠儀粉骨次第感入候、彌又励馳走事肝要候、恐々謹言、九月十四日 後藤隼人佐(連種)殿 P.566。
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    • 岡茂政 著《柳川史話》第二卷人物篇第117山崎美成の「夜談録」に《立花家旧記》から「立齋公口述次第」(「立齋公御咄之覺」)


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