少年期・家督相続
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永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後国大野郡(大野荘)大野郷藤北(大分県豊後大野市大野町)の鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる。最近、生誕地は、県民の森四辻峠付近の柳ヶ台(大野町高野字城浦)と解明された[要出典]。幼名は八幡丸(はちまんまる)。長兄は早世したため嫡男として育てられる。 幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。元服前の14歳の時、病弱な父に自ら志願し、補佐の老臣3人と共に2,000人の兵率いて出陣、これが初陣となる。この時は大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、八幡丸は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3,000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した。その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱を賜って鑑連に改名する。 その後、天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反乱の際には、肥後国に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した。天文15年(1546年)の秋月文種の一度目の謀反の時には、大友義鑑の命令を受け、佐伯惟教、臼杵鑑速、吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、この乱も鎮圧した。
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