少年期の戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 01:38 UTC 版)
上記のように、戦時中の〈奇蹟待望〉が挫折したことは、〈詩〉的なものが俗な現実の前に敗れ去るという絶望の主題となって、その後の三島文学の〈芸術対人生〉〈芸術家対生〉の問題として様々な形で複雑に反映されることになる。そして三島の幼少期からの成長の歩みは、敗戦国となった昭和の日本の歴史と切っても切り離せないものとなっている。 三島が学習院初等科に入学した1931年(昭和6年)の9月に満州事変が勃発、翌1932年(昭和7年)に日本は満州国を建国した。しかし1933年(昭和8年)3月に日本は国際連盟を脱退し、三島が中等科に進んだ12歳の1937年(昭和12年)7月に支那事変(日中戦争)が始まった。 そして14歳の1939年(昭和14年)10月には欧州で第二次世界大戦が起り、翌1940年(昭和15年)に日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ。1941年(昭和16年)12月8日に真珠湾攻撃をした日本は、アメリカとその連合国を相手とする全面戦争(大東亜戦争・太平洋戦争)に突入していった。 この時16歳だった三島は、「花ざかりの森」を連載中の雑誌『文藝文化』に、開戦の詔勅の厳かな感動を詠じた詩「大詔」を発表し、その3か月前の9月には、〈豊葦原之邦の創造の精神〉を考察した「惟神之道」という神道への深い傾倒をノートに綴っていた。 当初日本は華々しい戦果を挙げて戦域を拡げていたものの、1943年(昭和18年)の春頃から急速に負け戦の様相となっていった。日本古代精神の勝利を祈念していた三島は、〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるか〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と友人の東文彦に綴っていた。 1944年(昭和19年)5月に徴兵検査に合格した三島は、翌1945年(昭和20年)2月に召集されるが、気管支炎の高熱で肺浸潤と誤診されて即日帰郷となった。行動の世界の不適格者の烙印を押された三島は、『古今集』の紀貫之の序である「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」の詩の宣言に勇気づけられた。 しかし同年春頃から日本の本土にもアメリカ軍による激しい爆撃が始まり戦場のような惨状となった(東京大空襲など各地)。三島が5月から学徒勤労動員された神奈川県高座郡の海軍工廠も攻撃目標となり、アメリカ軍の上陸地点と予想され、東京よりも危険度の高い場所であった(詳細は三島由紀夫#戦時下の青春・大学進学と終戦を参照)。 物心ついた時から戦争の波が身近にあり、思春期と共に戦況が拡大し、ついに日本の文化・国家ごとの破滅と、自身の死の危険も迫っていた頃の三島は、ただひたすら純粋に言葉を紡ぎ、現状とは別次元の世界、『新古今集』に即した美的世界を追求していた。そしてそんな折にあった絶望の中の神風特攻隊の行為に三島は〈敬虔なる祈願〉を見出した(詳細は三島由紀夫#特攻隊についてを参照)。
※この「少年期の戦争」の解説は、「海と夕焼」の解説の一部です。
「少年期の戦争」を含む「海と夕焼」の記事については、「海と夕焼」の概要を参照ください。
- 少年期の戦争のページへのリンク