戦時下の青春・大学進学と終戦とは? わかりやすく解説

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戦時下の青春・大学進学と終戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「戦時下の青春・大学進学と終戦」の解説

1943年昭和18年2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった同年6月6日輔仁春季文化大会では、自作演出の劇『やがてみと』(2幕4場)が上演された(当初翻訳劇を企画したが、時局合わないということ山梨勝之進学習院長から許可出ずやむなく公威が創作劇を書いた)。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集出版化することを伊東静雄相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴紹介され新人三島」に興味持っていた富士出版乗り気になった。 同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い西巣鴨に住む医師詩人林富士馬宅へも連れていった。それ以降数年間、公威は文学的文通など親しく交際するようになった8月富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた。蓮田は公威に葉書送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏好意うけられたく」と、作品原稿富士送付するよう勧めた米英との戦争激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神世界蔽うた時、それは世界滅亡です〉と神聖な日本古代精神勝利を願った。なお、公威は同盟国イタリア最高指導者ベニート・ムッソリーニ好感抱いていながらも、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感持っていた。 同年10月8日、そんな便りやり取りしていた東文彦23歳若さ急逝し、公威は弔辞を奉げた。東の死により、同人誌赤繪』は2号廃刊となった文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦命日毎年欠かさず墓前参り来ていたという。なお、この年に公威は杉並区成宗堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言受けていた。 当時世情国民に〈儀礼強要〉をし、戦没兵士追悼式など事あるごとにオーケストラ騒がしく「海往かば」を演奏しラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末芝居小屋時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆甚だしく憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに戦歿勇士祈念〉とだけ言えばいいのだと友人徳川義恭伝えている。 国民儀礼強要は、結局儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚ズタズタにふみにじり、本末顛倒し挙句の果て国家精神型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃ゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度学制改革来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。中略文学護るとは、護国大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。 — 平岡公威徳川義恭宛て書簡」(昭和18年9月25日付) この年10月には在学徴集延期臨時特例公布され文科系学生徴兵猶予停止された。公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降同年生まれ)は12月までに入隊義務づけられた(学徒出陣)。それに先んじて10月21日の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な出陣学徒壮行会が行なわれ、公威もそのニュース重大な関心持って聴いていた。 同年10月25日蓮田善明召集令状受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことおまえに託した」と公威に言い遺し、翌日陸軍中尉軍装純白の手袋をして宮城前広場で皇居拝んだ。公威は日本行く末美的天皇主義尊皇)を蓮田から託された形となった富士正晴戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った同年12月徴兵適齢臨時特例公布され徴兵適齢19歳引き下げられることになった。公威は来年迫った自身入隊覚悟した1944年昭和19年4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信徴兵検査通達書を受け取り5月16日兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂徴兵検査受けた公会堂の現在も残るの下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵持ち上げるなどの検査もあった。 本籍地ほど近い加古川徴兵検査受けたのは、〈田舎の隊で検査受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵であったが、結果第二乙種合格となり、その隊に入隊することとなった召集令状翌年2月)。徴兵合格知った母・倭文重は悲泣し、当て外れた父・気落ちした級友三谷信など同級生大半特別幹部候補生として志願していたが、公威は一兵卒として応召されるつもりであった。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡選んだのだと三谷思った徴兵検査合格帰途5月17日大阪住吉中学校教師をしている伊東静雄訪ね支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた5月22日は、遺著となるであろう処女出版本花ざかりの森』の序文依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情持たれて「学校三時平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴ呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記書かれた。しかし、伊東はのちに『花ざかりの森献呈返礼で、会う機会少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価見直すことになる。 1944年昭和19年9月9日学習院高等科首席卒業卒業生総代となった卒業式には昭和天皇臨席し、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学原書3冊(ナチスハーケンクロイツ入り)をもらった御礼言上に、学習院長山梨勝之進海軍大将と共に宮内参内し謝恩会華族会館から図書数冊も贈られた。 大学文学部への進学という選択肢念頭にはあったものの、父・説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科独法)に入学推薦入学)した。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理進行〉に魅惑され修得した法学論理性小説戯曲創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・感謝する。父は公威が文学熱中することに反対して度々執筆活動妨害していたが、息子法学部進学させたことにより、三島文学日本文学史上稀有論理性もたらしたことは貢献であった出版統制厳しく紙不足の中、〈この世形見〉として『花ざかりの森刊行に公威は奔走した同年10月処女短編集花ざかりの森』(装幀友人徳川義恭)が七丈書院出版された。公威は17日届いた見本本1冊をまず、入隊直前三谷信上野駅献呈した。息子文学活動反対していた父・であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日上野下谷区池之端(現・台東区池之端)の中華料理店雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化同人徳川義恭林富士馬などが出席した書店並んだ花ざかりの森』は、学生当時吉本隆明芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた。 1945年昭和20年)、いよいよ戦況逼迫して大学授業中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町中島飛行機小泉製作所勤労動員され、総務部調査課配属となった事務作業従事しつつ、公威は小説中世」を書き続ける以前保田與重郎謡曲文体について質問した際に期待した浪漫主義答え得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感裏打ちされ終末観美学作品化挑戦し中河与一厚意によって第1回第2回途中までを雑誌文藝世紀』に発表した誕生日1月14日思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキ美味しく食べた(この思い出後年遺作天人五衰』に描かれることになる)。2月4日入営通知電報自宅届いた。公威は〈天皇陛下歳〉と終り記した遺書書き遺髪と遺爪を用意した中島飛行機小泉製作所離れることになったが、軍用機工場前年から本格化していた米軍による日本本土空襲優先目標であった。公威が入隊検査受けた10日小泉製作所米軍爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召三島罹災をまぬがれさせる結果となった同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・一緒に兵庫県富合村高岡廠舎出立した風邪寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈高熱症状出していた公威は、滞在先の志方村知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護受けた解熱剤服用し一旦小康状態になったものの、10日入隊検査の折の丸裸寒さでまた高熱となった公威は、新米軍医からラッセル聞こえと言われ血沈も高い数値示したため肺浸潤結核三期症状)と診断され即日帰郷となったその後東京病院精密検査誤診だと分かる)。その部隊兵士たちフィリピン派遣され多数死傷してほぼ全滅した戦死覚悟していたつもりが、医師問診同調し誇張した病状報告答えた自身のこの時のアンビバレンス感情以後三島の中で自問自答繰り返す。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降彼に複雑な思い(常に死の観念意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる。 が公威と共に自宅に戻ると一家喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れ1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊入りたかった」と真面目につぶやいたという。公威はその後4月三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公すましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え神風特攻隊についての熱い思い記した兵役即日帰郷となったものの、一時猶予得たにすぎず、再び召集される可能性があった。 公威は、栗山理一通じて野田宇太郎(『文藝編集長)と知り合い戦時下でただ一つ残った文芸誌文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された。処女短編集花ざかりの森』は野田通じ3月川端康成献呈された。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた。群馬県前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京大空襲見舞われた(東京大空襲)。焦土化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した1945年昭和20年5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和海軍高座工廠勤労動員された。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集『古事記』日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典泉鏡花イェーツなどを濫読した。6月12日から数日間軽井沢疎開している恋人三谷邦子(親友三谷信の妹)に会い行き初めての接吻をした。帰京後7月戦禍悪化して空襲激しくなる中、公威は遺作となることを意識した岬にての物語」を書き始めた1945年昭和20年8月6日9日と相次ぎ広島長崎原子爆弾投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツ着て歩いた10日、公威は高熱頭痛のため高座工廠から、一家疎開していた豪徳寺親戚の家に帰宅し梅肉エキス舐めながら床に伏せった。 8月15日終戦迎えてラジオ玉音放送聞いた際、「これから芸術家世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・言った

※この「戦時下の青春・大学進学と終戦」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
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