戦時下の荒廃から国民体育大会を契機として再整備
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「大川寺遊園」の記事における「戦時下の荒廃から国民体育大会を契機として再整備」の解説
こうして公園整備事業は完了したのであるが、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発以降、食糧事情の悪化によって公園内の芝生は掘り起こされて菜園と化し、徐々に園内は荒廃していった。1943年(昭和18年)1月1日の交通統合と共に誕生した富山地方鉄道は、富山県より上滝公園の管理も引き継いだが、戦局の悪化に伴い公園内のスキー場には防空監視哨が置かれるなど、戦時下においては公園内の整備はままならなかった。やがて終戦を迎えると、1948年(昭和23年)頃より公園内の修復作業が徐々に進められ、園内の菜園も解消されるなど旧態に復していった。加えて1958年(昭和33年)の第13回国民体育大会馬術会場として上滝公園が指定されると共に公園復旧計画は本格化し、富山地方鉄道と大山町の両者が運営資金を支出して大川寺公園管理委員会が設置され、上滝公園は大川寺公園として遊園地へと整備されることとなった。この遊園地化事業は1958年(昭和33年)7月16日より着工され、工費1200万円を以て子供電車や豆自動車等の遊具を整備し、同年9月6日より大川寺公園として開園した。開園当時は日本海側最大の遊園地として、人々に喜ばれたという。この大川寺公園の開園に合わせ、1959年(昭和34年)1月1日に上滝公園下駅も大川寺公園駅と駅名を変更した。なお遊園地化事業の契機となった第13回国民大会馬術競技は、同年10月19日より10月21日より開催され、期間中の10月20日には昭和天皇及び香淳皇后が同園に行幸し競技の様子を天覧した。
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