戦時下の荒廃から国民体育大会を契機として再整備とは? わかりやすく解説

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戦時下の荒廃から国民体育大会を契機として再整備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 08:26 UTC 版)

大川寺遊園」の記事における「戦時下の荒廃から国民体育大会を契機として再整備」の解説

こうして公園整備事業完了したのであるが、1941年昭和16年12月太平洋戦争大東亜戦争)の勃発以降食糧事情悪化によって公園内芝生掘り起こされ菜園化し徐々に園内荒廃していった。1943年昭和18年1月1日交通統合と共に誕生した富山地方鉄道は、富山県より上滝公園の管理引き継いだが、戦局の悪化に伴い公園内スキー場には防空監視哨置かれるなど、戦時下においては公園内整備はままならなかった。やがて終戦迎えると、1948年昭和23年)頃より公園内修復作業徐々に進められ園内菜園解消されるなど旧態復していった。加えて1958年昭和33年)の第13回国民体育大会馬術会場として上滝公園指定されると共に公園復旧計画本格化し、富山地方鉄道大山町両者運営資金支出し大川寺公園管理委員会設置され上滝公園大川寺公園として遊園地へと整備されることとなった。この遊園地事業1958年昭和33年7月16日より着工され工費1200万円を以て子供電車豆自動車等の遊具整備し同年9月6日より大川寺公園として開園した開園当時日本海側最大遊園地として、人々喜ばれたという。この大川寺公園開園合わせ1959年昭和34年1月1日上滝公園下駅大川寺公園駅駅名変更した。なお遊園地事業契機となった第13回国民大会馬術競技は、同年10月19日より10月21日より開催され、期間中10月20日には昭和天皇及び香淳皇后が同園に行幸競技様子天覧した。

※この「戦時下の荒廃から国民体育大会を契機として再整備」の解説は、「大川寺遊園」の解説の一部です。
「戦時下の荒廃から国民体育大会を契機として再整備」を含む「大川寺遊園」の記事については、「大川寺遊園」の概要を参照ください。

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