戦時下の苦闘(昭和12年 - )
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「吉本興業ホールディングス」の記事における「戦時下の苦闘(昭和12年 - )」の解説
1937年の日中戦争の開始、1941年の太平洋戦争の開始と戦時下の締めつけの強化は、吉本の展開にも暗い影を投げかけていった。当局の台本への検閲が厳しくなり、レビューへの風当たりもきつくなっていった。1941年には、「吉本ショウ」は「吉本楽劇隊」と改称させられている。 吉本は一方で、当時の国策に協力することで、戦時下を乗り切ろうとした。1938年からは、大阪朝日新聞(現・朝日新聞大阪本社)と協力して「わらわし隊」という戦地慰問団を結成し、エンタツ、アチャコ、金語楼、三亀松ら自社の人気芸人を続々と中国大陸に派遣した。また1941年(昭和16年)、情報局や大政翼賛会の主導により「日本移動演劇連盟」が設立されると、「吉本移動演劇隊」を結成してこれに加盟し、全国を巡演した。さらには映画製作においても、金語楼主演の『プロペラ親爺』(1939年)のように国策に沿った喜劇映画を数多く製作した。そして1943年、当時所有していた大阪の通天閣が出火で焼けると、復旧工事を止めて通天閣を解体し、政府に軍需資材として献納した。 他方で、戦争が泥沼化し、本土への空襲も始まると、吉本は物的・人的にも大きな打撃を被ることになった。1945年3月の東京大空襲では、神田花月と江東花月が焼失。神奈川県下に所有していた劇場も度重なる空襲ですべて失い、関東地区における吉本傘下の劇場で終戦時に残ったのは、浅草花月劇場、浅草大都劇場、銀座全線座の3館のみであった。地元大阪でも、相次ぐ空襲で、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した。また出征していった所属芸人の戦死にも見舞われた。こうした混乱もあり、吉本興業は終戦直前に花菱アチャコを除く全所属芸人との専属契約を解消するに至った(同時に会社に借金がある芸人についてはその借金を棒引きしている)。ただし専属契約の解消時期については「戦後の1946年 - 1947年ごろ」とする見解もある。1946年秋に大阪で行われた5代目笑福亭松鶴主催の落語会に2代目桂春団治が出演しようとした際、本番直前に会場に林正之助が現れ出演を差し止めた現場を3代目桂米朝が目撃しているため、この時点でまだ専属契約が有効であったとする評論家もいる。いずれにせよ、終戦直後の混乱の中での契約解消であったことがうかがえる。
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