戦時下の苦闘とは? わかりやすく解説

戦時下の苦闘(昭和12年 - )

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:47 UTC 版)

吉本興業ホールディングス」の記事における「戦時下の苦闘(昭和12年 - )」の解説

1937年日中戦争開始1941年太平洋戦争開始戦時下締めつけ強化は、吉本の展開にも暗い影投げかけていった当局台本への検閲厳しくなり、レビューへの風当たりもきつくなっていった1941年には、「吉本ショウ」は「吉本楽劇隊」と改称させられている。 吉本一方で当時国策協力することで、戦時下乗り切ろうとした。1938年からは、大阪朝日新聞(現・朝日新聞大阪本社)と協力してわらわし隊」という戦地慰問団を結成しエンタツアチャコ、金語、三亀自社人気芸人続々中国大陸派遣した。また1941年昭和16年)、情報局大政翼賛会主導により「日本移動演劇連盟」が設立されると、「吉本移動演劇隊」を結成してこれに加盟し全国巡演した。さらには映画製作においても、金語楼主演の『プロペラ親爺』(1939年)のように国策沿った喜劇映画数多く製作した。そして1943年当時所有していた大阪通天閣出火焼けると、復旧工事止めて通天閣解体し政府軍需資材として献納した他方で、戦争泥沼化し、本土へ空襲も始まると、吉本物的人的に大きな打撃を被ることになった1945年3月東京大空襲では、神田花月江東花月焼失神奈川県下に所有していた劇場度重なる空襲ですべて失い関東地区における吉本傘下劇場終戦時残ったのは、浅草花月劇場浅草大都劇場銀座全線座の3館のみであった地元大阪でも、相次ぐ空襲で、本社をはじめ、所有していた寄席劇場映画館のほとんどが瓦礫化した。また出征していった所属芸人戦死にも見舞われた。こうした混乱もあり、吉本興業終戦直前花菱アチャコを除く全所属芸人との専属契約解消する至った同時に会社借金がある芸人についてはその借金棒引きしている)。ただし専属契約解消時期については「戦後1946年 - 1947年ごろ」とする見解もある。1946年秋に大阪行われた5代目笑福亭松鶴主催落語会2代目桂春団治出演しようとした際、本番直前会場林正之助現れ出演を差し止めた現場3代目桂米朝目撃しているため、この時点でまだ専属契約が有効であったとする評論家もいる。いずれにせよ終戦直後混乱の中での契約解消であったことがうかがえる

※この「戦時下の苦闘(昭和12年 - )」の解説は、「吉本興業ホールディングス」の解説の一部です。
「戦時下の苦闘(昭和12年 - )」を含む「吉本興業ホールディングス」の記事については、「吉本興業ホールディングス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦時下の苦闘」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦時下の苦闘」の関連用語

戦時下の苦闘のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦時下の苦闘のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吉本興業ホールディングス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS