戦時下の貴族院書記官長
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書記官長時代の小林の議会運営は各派交渉会などの場において議長と書記官長の「一人二役」といわれるような、議長を戴きながらその代弁をし、一方では事務局の長として規則とか先例を説明するという二つの立場を巧妙に使い分けていたという。また議会は規程により傍聴を認めておらず、衆議院は新聞記者だけは入れるようにしたが貴族院は規程通りにおこなっていた。終戦後も小林はこれを決して認めなかったという。 1941年12月6日の太平洋戦争開戦の日は、午前4時ごろ東條英機総理大臣から電話で「午前5時に大木衆議院書記官長と一緒に首相官邸の日本間のほうへ来るように」といわれ、面会した東條は緊張したなかにも安堵したような面持ちで「うまく行った」といい、小林と大木に臨時議会招集の用意を命じたのち、その場にいた星野内閣書記官長、森山内閣法制局長と大木、小林、東条の五人で乾杯したという。。 小林は東条内閣の戦争遂行方針には批判的な立場であったという。小林の書記官長室にはしきりに有力議員が来て「無茶な戦争をして勝てっこないぞ」「けしからん」という発言をしていったといい、そうした講和派の議員と外務省とのパイプ役を果たさせるために、重光葵外相のもとで和平を担当していた外交官加瀬俊一を貴族院書記官と兼任させ部下として工作に従事させた。加瀬は戦後小林を「憂国の赤誠あふれる達見の人物で陰に陽にわれわれを援助してくれた」と評している。 また小林自身が公用車内で「この戦争は負ける」と発言したら運転手が「皆が戦争に勝つといっているのに何事ですか」といって辞めてしまった。そのことを終戦後に再会した元運転手に詫びられ「負けるとわかっていたらどうしてあのときあなたが総理大臣にならなかったのですか」といわれ困惑したという逸話がある。 戦時中の貴族院の議院や各種調査会の速記録については、保全を図るため郷里に近い長野市善光寺の納骨堂へ保管せしめたことがあったという。 1945年5月24日未明の空襲で議事堂最寄りにあった貴族院書記官長官舎にもM69焼夷弾が着弾。幸い消火に成功し、小林は翌25日朝に所用のため長野に帰省したが、同日夜再度の空襲で官舎は全焼した。 終戦後、降伏調印式に出席する重光葵全権代表に随行することになった加瀬俊一は、礼服に必要なシルクハットを戦災で焼失していたが、小林次郎が貸してくれたものを持参して式に臨んだ。有名な戦艦ミズーリ艦上での調印式の映像で重光のかたわらに随う加瀬が持っているのが小林のシルクハットである。式典後の記者会見が終わった後、旧知の米国人ジャーナリストがこのハットの中にチョコレートを入れておいてくれたのを見た加瀬は、戦争が終わり平和がおとずれたことをしみじみ実感したという。 やがて進駐軍が来ると議会職員の女子達はみな逃げ始めたが、小林はこれを「怪しからん、みな引きとめろ」といい、また通用口に立てていた日の丸を進駐軍が奪った事件があったときには、これに抗議を申し入れさせるなどしたため、厳格で昔気質の持ち主と評された。
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