戦時下の貴族院書記官長とは? わかりやすく解説

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戦時下の貴族院書記官長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:05 UTC 版)

小林次郎」の記事における「戦時下の貴族院書記官長」の解説

書記官長時代小林議会運営各派交渉会などの場において議長と書官長の「一人二役といわれるような、議長戴きながらその代弁をし、一方で事務局の長として規則とか先例説明するという二つ立場巧妙に使い分けていたという。また議会規程により傍聴認めておらず、衆議院新聞記者だけは入れるようにしたが貴族院規程通りにおこなっていた。終戦後小林はこれを決し認めなかったという。 1941年12月6日太平洋戦争開戦の日は、午前4時ごろ東條英機総理大臣から電話で「午前5時に大木衆議院書記官長一緒に首相官邸日本間のほうへ来るように」といわれ、面会した東條緊張したなかにも安堵したような面持ちで「うまく行った」といい、小林大木臨時議会招集用意命じたのち、その場にいた星野内閣書記官長森山内閣法制局長と大木小林東条五人乾杯したという。。 小林東条内閣戦争遂行方針には批判的な立場であったという。小林書記官長室にはしきりに有力議員来て無茶な戦争をして勝てっこないぞ」「けしからん」という発言をしていったといい、そうした講和派の議員外務省とのパイプ役を果たさせるために、重光葵外相のもとで和平担当していた外交官加瀬俊一貴族院書記官兼任させ部下として工作従事させた。加瀬戦後小林を「憂国赤誠あふれる達見人物陰に陽にわれわれを援助してくれた」と評している。 また小林自身公用車内で「この戦争負ける」と発言した運転手が「皆が戦争に勝つといっているのに何事ですか」といって辞めてしまった。そのこと終戦後再会した運転手詫びられ「負けるとわかっていたらどうしてあのときあなたが総理大臣にならなかったのですか」といわれ困惑したという逸話がある。 戦時中貴族院議院各種調査会の速記録については、保全を図るため郷里に近い長野市善光寺納骨堂保管せしめたことがあったという。 1945年5月24日未明空襲議事堂最寄りにあった貴族院書記官長官舎にもM69焼夷弾着弾。幸い消火成功し小林は翌25日朝に所用のため長野帰省したが、同日再度空襲官舎全焼した終戦後降伏調印式に出席する重光葵全権代表に随行することになった加瀬俊一は、礼服必要なシルクハット戦災焼失していたが、小林次郎貸してくれたものを持参して式に臨んだ有名な戦艦ミズーリ艦上での調印式の映像重光かたわら随う加瀬持っているのが小林シルクハットである。式典後の記者会見終わった後、旧知米国人ジャーナリストがこのハット中にチョコレート入れておいてくれたのを見た加瀬は、戦争終わり平和がおとずれたことをしみじみ実感したという。 やがて進駐軍が来ると議会職員女子達はみな逃げ始めたが、小林はこれを「怪しからん、みな引きとめろ」といい、また通用口立てていた日の丸進駐軍奪った事件があったときには、これに抗議申し入れさせるなどしたため厳格昔気質持ち主評された。

※この「戦時下の貴族院書記官長」の解説は、「小林次郎」の解説の一部です。
「戦時下の貴族院書記官長」を含む「小林次郎」の記事については、「小林次郎」の概要を参照ください。

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