戦時中から戦後の活動とは? わかりやすく解説

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戦時中から戦後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:06 UTC 版)

木々高太郎」の記事における「戦時中から戦後の活動」の解説

1939年雑誌条件反射」を自費出版1941年研究動員を受け陸軍科学研究所嘱託となる。 1945年研究所創設し所長となり、翌年には慶應義塾大学医学部教授となる。執筆活動再開し翌年には『推理小説叢書』を監修。ここで、のちに定着する推理小説」という言葉用いる。同年、「新月」で第1回探偵作家クラブ賞短篇受賞翌年、「ロック誌上江戸川乱歩論争1951年昭和26年)には復刊された「三田文学」の編集委員となり、木々は同誌の表紙裏表紙デザインも手がけている。松本清張は、同年3月木々推挽により三田文学に「記憶」を、さらに9月には「或る小倉日記』伝」を発表している。 1952年昭和27年)、田村良宏(後のSRの会会長筆名河田)らにより創設され紀田順一郎大伴昌司らも参加した慶応義塾大学推理小説研究会顧問となる。1953年には、江戸川乱歩大下宇陀児のあとを引き継ぎ日本探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会第3会長となった1960年、『頭のよくなる本』で「頭脳パン」を提唱米食止めパン主食にするべきだと主張した(なお、この木々主張の背景には、アメリカ本拠を置くいわゆる穀物メジャー」からの強い働きかけさらには研究費の提供等があったことが現在では判明している)。 1963年昭和38年2月には同人誌小説と詩の評論」の創刊主宰し新人育成にも携わり自身も詩や評論発表している。1964年昭和39年)に山梨県人会である山人会発足すると、会員となる。1965年昭和40年3月には慶応義塾大学定年退職し、名誉教授となる。1967年昭和42年)には第一詩集渋面』を、1969年昭和44年)には第二詩集月光』を刊行する第三詩集刊行構想されていたが、未完に終わる1969年4月入院し同年10月31日心筋梗塞のため聖路加国際病院死去する72歳没。

※この「戦時中から戦後の活動」の解説は、「木々高太郎」の解説の一部です。
「戦時中から戦後の活動」を含む「木々高太郎」の記事については、「木々高太郎」の概要を参照ください。

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