戦時中から戦後の活動
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1939年、雑誌「条件反射」を自費出版。1941年、研究動員を受け陸軍科学研究所嘱託となる。 1945年、林研究所を創設して所長となり、翌年には慶應義塾大学医学部教授となる。執筆活動も再開し、翌年には『推理小説叢書』を監修。ここで、のちに定着する「推理小説」という言葉を用いる。同年、「新月」で第1回探偵作家クラブ賞短篇賞受賞。翌年、「ロック」誌上で江戸川乱歩と論争。 1951年(昭和26年)には復刊された「三田文学」の編集委員となり、木々は同誌の表紙・裏表紙のデザインも手がけている。松本清張は、同年3月に木々の推挽により三田文学に「記憶」を、さらに9月には「或る『小倉日記』伝」を発表している。 1952年(昭和27年)、田村良宏(後のSRの会会長、筆名河田陸村)らにより創設され、紀田順一郎・大伴昌司らも参加した、慶応義塾大学推理小説研究会の顧問となる。1953年には、江戸川乱歩、大下宇陀児のあとを引き継ぎ、日本探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)第3代会長となった。 1960年、『頭のよくなる本』で「頭脳パン」を提唱。米食を止め、パンを主食にするべきだと主張した(なお、この木々の主張の背景には、アメリカに本拠を置くいわゆる「穀物メジャー」からの強い働きかけ、さらには研究費の提供等があったことが現在では判明している)。 1963年(昭和38年)2月には同人誌「小説と詩の評論」の創刊を主宰し新人の育成にも携わり、自身も詩や評論を発表している。1964年(昭和39年)に山梨県人会である山人会が発足すると、会員となる。1965年(昭和40年)3月には慶応義塾大学を定年退職し、名誉教授となる。1967年(昭和42年)には第一詩集『渋面』を、1969年(昭和44年)には第二詩集『月光と蛾』を刊行する。第三詩集の刊行も構想されていたが、未完に終わる。1969年4月に入院し、同年10月31日に心筋梗塞のため聖路加国際病院で死去する。72歳没。
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