戦時中と戦後の言論
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1941年1月号の『改造』誌に「阿呆陀羅経」という一文を寄せ、「万民翼賛とか臣道実践とかいうのは言葉や掛声だけで済まされる筈のものではない。それは口にするさえ畏れ多い事、吾々臣民が日夜砕励の誠を尽くしても、尚その万分の一さえ容易に践み行い得たとは云えない筈の事だ」と書き、1944年の著書『詩人哲学者』序文では学生たちに向けて「諸君、美しく死んでくれたまえ」と書いている(戦後版では削除)。地域の隣組長を務め、そのことを1943年3月の『改造』誌に「親孝行」という文章でつづっている。戦後は「ナチス・ドイツの世界観も八紘一宇の世界観なるものもなんだかいやだという「自由主義者」であったから、およそ思想統制的なものは―勅語にしても国定教科書にしても―すべて虫がすかなかった」(1955年10月号『読書と生活』誌掲載「弁証法的唯物論研究」)というのが共産党に入党した理由だと語っている。『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には出について、つぎの副題が付けられている。 出隆(元東大教授・日本共産党員)女流防火群を叱咤する隣組長 — 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年 意気地のない見栄坊だとわかる、と安岡正篤は出隆を評している。
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