戦時中と戦後
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第二次世界大戦戦時中、ニコライ堂は空襲による被害を免れて無傷のまま残った。東京大空襲の後には地元からの要望により、安置場所の無い焼け焦げた遺体が大量に大聖堂に運び込まれた。遺体の放つリンが燃える光により、夜には大聖堂の窓が青白く光っていたという。殆どの関係者は遺体の数と惨状を恐れて大聖堂に近づかなかったが当時セルギイ府主教の後任として日本正教会を統括する主教であったニコライ小野帰一のみは大聖堂に入り、ひとりパニヒダを捧げていたと伝えられる。 戦後は土地取得の問題が日本政府との間に発生し、ニコライ堂は敷地の一部を売却して現在の敷地の購入費用に当てその敷地を大幅に縮小することとなった。
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戦時中と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:46 UTC 版)
日本の戦時体制が強まると戦争に勝つために再び科学教育の重要性が叫ばれるようになったが、政府は科学教育に日本的な態度や日本的な考え方を取り入れた日本的科学論を採り、「皇国の道に従う国民の基礎的錬成」を方針として定めた。神戸は1936年(昭和11年)から日本的科学論に基づく科学教育を排除する論文を発表した。しかし、1938年12月(昭和13年12月)に「国民学校に関する要綱」が公布された後、神戸は日本的科学論に言及しなくなった。神戸は自然科学における国境の有無に関する態度を保留し、日本的科学論が国民学校要項の思想と教育実践に影響を与えたことに言及しなくなった。 戦後の回想で神戸は1942年(昭和17年)に聴いた講演で「人間がサルから進化したという見解が、日本人を侮辱し、とくに皇室の威厳を傷つけるものである」と講演者が主張し、実際に学校教育から進化論が排除されたことを、「進化論者として進化論への誤解に反論しなかったこと」を後悔した。神戸は「涙をのんで(発言を)差し控えてしまった」が、それは「日本人の優秀性とか、日本独特の文化とかに気勢を上げていた時」であったため、「反論ができない雰囲気だった」と述べている。
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