戦時下の首相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 05:24 UTC 版)
「ペール・アルビン・ハンソン」の記事における「戦時下の首相として」の解説
詳細は「第二次世界大戦下のスウェーデン」を参照 1939年のナチス・ドイツとソビエト連邦によるポーランド侵攻後、ハンソンは厳正な中立を宣言して、彼のリーダーシップの下で全ての主要政党が参加する大連立を呼びかけ、同年12月13日にスターリニズムを標榜する共産党と短命に終わった親ナチスの少数派閥である社会党を除く社民党・保守党・自由党・農民同盟の4党による挙国一致内閣が成立した。スウェーデンはヨーロッパにおいてスペイン・ポルトガル・スイス・アイルランド・バチカンと同様に第二次世界大戦全期間を通して中立を維持したが、前述した国々の様に、連合国・枢軸国の双方と協力ないし貿易関係を結び続けていた。ウィンストン・チャーチルは、ナチス・ドイツによるデンマーク及びノルウェーへの侵攻がハンソン内閣によって認可されたスウェーデン領域内における輸送強化によって部分的に支えられていた、として大戦下におけるスウェーデンが自国の利益の為に中立義務違反という非常に道徳的な問題を無視している、と主張した。 1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦において、ドイツは同盟国フィンランドを支える為に、1個師団をスウェーデンの鉄道によってノルウェーからフィンランドに2週間かけて輸送する事を要求すると同時に、要求を拒否した場合にはフィンランド共々スウェーデンへの武力侵攻を行う、という事実上の最後通牒をハンソン内閣に突き付けた。要求の受諾を巡ってスウェーデン国内は紛糾したが、地理的に枢軸国に囲まれている現状を鑑みたうえで、非交戦状態維持と独立確保という利益だけを念頭においた1度限りの譲歩として、完全武装した1万2千人規模の第163師団を2週間かけて移送する事に合意した。この最後通牒を取り巻く政治上の審議は『夏至の危機(英語版)』と呼ばれ、世界史上類例の無い中立違反ないし中立国による戦争協力事例として、歴史的な汚点を残す結果となってしまった。因みに、国王グスタフ5世がドイツに譲歩しない場合は退位するとほのめかした事が、要求を受け入れる決定的なきっかけになったと伝えられているが、内閣を指名する権限を保持しているものの、第一次世界大戦以降政府の方針に直接介入しなかった国王の公然とした同問題への干渉は、政権の安定と継続中の戦争を考慮した上では、国家の主権に対する脅威と見做された。 近年の研究では、『危機』は社民党及びハンソン自身の政治的遺産を守る為の歴史的な後知恵によって創り上げられたものだと分析されている。 ドイツはルール地方の産業に必要な鋼を獲得する為に、伝統的な供給元であったフランスの鉱山からの供給が絶たれて以来、フランスを占領するまでの1939年~40年にかけて、スウェーデンからの鉄鉱石の輸出に依存していた。同じ時期に連合国は、ドイツへの鉄鉱石の輸出を妨害すべく、R4計画に代表される様々な作戦を立案した。また、連合国からスウェーデンへの食糧の輸出を停止をほのめかす圧力を受けた事により、ナチス・ドイツへの鋼の輸出を停止すると合意したものの、秘密裏に反故にして、スウェーデンはドイツに対して、鋼の輸出において法外な密輸料を請求し続けた。 ドイツによって事故を理由にスウェーデン領内に打ち込まれたV2ロケットを、1942年に連合国へ売却し、高度なナチスのロケット工学の詳細を譲渡する事になった。実質的に、第二次世界大戦の間にスウェーデンの直接的な戦争への関与を避ける事が、最も高い政治的優先順位とされた。1942年~43年頃にかけて連合国が優勢になると、スウェーデンは最早ドイツからの侵攻によって深刻に脅かされる事はなくなり、その後は譲歩の要求もその大部分を跳ね除け続けた。
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