戦時中から戦後まもなくにかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「戦時中から戦後まもなくにかけて」の解説
関門トンネルは、先に開通した下り線で1942年(昭和17年)6月11日から試運転を開始し、6月20日から臨時扱いでの貨物列車の運転が開始され、7月1日に正式に貨物用に開通した。旅客列車の運転開始は11月15日となった。当時、山陽本線の電化区間は西明石までで、九州島内の国鉄線には電化区間はなく、蒸気機関車が列車を牽引していた。しかし関門トンネルでは急勾配とトンネルの長さの条件から蒸気機関車は使用できず、幡生操車場から門司操車場までの間の10.4キロメートルが直流1,500ボルトで電化された。このために、旅客・貨物の両用にEF10形電気機関車が投入された。EF10形は丹那トンネル開通に際して開発された貨物用の機関車であった。のちに、関門トンネルで運用される機関車は塩害が激しいことから、外板をステンレス製のものに交換し、さらに耐食アルミニウム合金を使用したパンタグラフを採用し耐塩害塗装を施すなど、塩害対策に十分に気を配ることになった。 旅客列車は、下関駅と門司駅の間の6.3キロメートルを、1両のEF10形で牽引して約9 - 10分程度で走行した。機関車1両での牽引力は600トンとされた。貨物列車については、下関の手前の幡生駅付近にある操車場を改良して、1日2,500両の処理能力のある平面式操車場とし、一方、九州側では門司駅構内に1日2,600両の処理能力のあるハンプ式操車場を建設した。これらの操車場は対になって役割を果たすもので、九州島内から本州方面への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて幡生操車場で行先別に組み替えられて送り出され、一方本州から九州島内への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて門司操車場で行先別に組み替えられて送り出される運用がとられた。このため、貨物列車は幡生操車場から門司操車場までの間をEF10形が牽引して走ることになった。貨物列車は重連運転(2両の機関車で牽引)とされ、1,200トンの列車を牽引した。いずれもトンネル内の急勾配と湿った線路のために空転や滑走が続発し、対策として最大5トンの死重を搭載し、大量に砂を撒いて走行していた。撒かれる砂は毎月20トンにもなり、砂を取り除く保線作業は大変なものであったという。 運行開始された旅客列車は、東京 - 長崎間の特急「富士」1往復(第1・2列車)、東京 - 鹿児島間の2・3等急行列車第7・8列車(従来の特急「櫻」を急行化)など、1日5往復の優等列車に加え、普通列車が東京と九州の間で1日3往復、京都・大阪と九州の間で1日6往復、山陽と九州の間で1日に下り5本、上り4本であった。しかし戦局の悪化に伴い、旅客輸送は次第に削減されて貨物輸送に重点が置かれるようになっていった。終戦直前の時点では、急行列車は東京 - 門司間の1日1往復にまで削減されていた。貨物輸送の増強のため、変電所の水銀整流器が1944年(昭和19年)に増強され、EF10形の配置両数も15両から25両に増強された。さらに空襲による被災に備えて、従来の変電所の設備の一部を移設する形で、彦島に地下変電所が建設されている。地下変電所の完成は終戦後の1946年(昭和21年)3月となり、約20日間実際に運転したとされるが、10月に廃止されて設備が元の変電所に戻された。空襲対策では、1944年(昭和19年)に変電設備の被災による停電に備えてD51形蒸気機関車によるトンネル内の牽引試験が行われ、上り22パーミル勾配で1両の機関車で1,000トンの引き出しに成功したが、これが関門トンネルにおける蒸気機関車運転の唯一の記録である。1945年(昭和20年)2月1日、石炭を満載した貨物列車が上り線トンネルの上り勾配で立ち往生し、再度の発進に失敗したためトンネル内に退行したところ、連絡不足と安全確認の不徹底のため、閉塞信号により停車中だった後続列車と衝突する事故があった。 第二次世界大戦末期に九州の電力事情が逼迫したため、中国地方から電力の送電を図ることになり、下関立坑と門司第2立坑の間の上り線トンネル内に、日本発送電の彦島変電所と新大里変電所を結ぶ22キロボルト特別高圧送電線1回線が敷設された。しかしこの回線はまもなく、12月に110キロボルト関門幹線(関門海峡を横断する架空送電線)に置き換えられ、撤去された。 終戦直前には交通の重要施設として、本土決戦に備えて北九州高射隊の13ミリ高射機関砲4門、将校1、下士官1、兵12が関門トンネルの防衛用に配置された。一方の連合国軍は関門トンネルの破壊作戦を立案していた。1945年(昭和20年)7月31日には、沖縄の基地を離陸したアメリカ陸軍のB-24爆撃機の編隊が、下関方のトンネル入口と橋梁を爆撃する作戦を実行しようとしたが、悪天候のために中止された。1945年(昭和20年)8月5日付のアメリカ陸軍太平洋軍司令官から極東航空軍あての電文では、関門トンネルに対する爆破計画が指示されていた。これは日本船に偽装した航空機救助船4隻に各25トンの爆薬を積んで送り込み、トンネル付近に沈めてリモコンで爆破するという作戦であった。第二次世界大戦後、日本に進駐した連合国軍の中で工兵のヒュー・ケイシー(英語版)少将が、進駐直後に国鉄の現状を把握するために、当時の停車場課長立花次郎を呼び出して最初に質問したのが「関門トンネルは無事か」というもので、立花は「もちろん無事であります。関門連絡線は今日も多数の列車を走らせています」と答えたという。 戦争が終結すると、引揚者の帰還輸送と、日本で働いていた朝鮮人・中国人の帰還輸送が開始され、そのための臨時列車が関門トンネルを通過して設定された。また、日本を占領下においた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、連合軍専用列車の設定を要求し、関東と九州を結ぶ専用列車が定期化された。1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて極端な石炭不足により、急行列車の全廃、二等車の連結全廃などの措置がとられて鉄道の輸送力は大幅に減少したが、それでも関門トンネルを通過して東京と九州を結ぶ輸送だけは最低限確保されていた。しかしこのころ、貨物輸送の減少もあって関門トンネルの通過列車は減少し、EF10形も一部が他の機関区に転属して、関門地区での配置数が減少した。 もともと北九州地区の商用電源周波数は50ヘルツであり、関門トンネルに九州側から電力を供給する門司変電区の受電周波数も50ヘルツであった。しかし第二次世界大戦後、北九州地区の電力需要は増加の一途をたどり、九州島内の電力網の連系を行い、また中国地方からの受電を行うことも急務となったこともあって、1949年(昭和24年)の閣議決定で九州地方の電源周波数を60ヘルツに統一することになった。これに前後して、九州地区の実際の60ヘルツへの周波数変更作業が進められ、門司変電区の受電周波数も1948年(昭和23年)2月に60ヘルツ化された。門司変電区の周波数変更が迅速に行われたのは、もともと信号機や排水ポンプなどの電源は当初から両周波数に対応するように設計されていたこと、列車走行用の電力供給についても変圧器のみ交換すれば済んだこと、国の機関として率先して周波数変更に対応する立場であったことなどが挙げられる。一方で、関門トンネルの輸送量は低迷していたため、この機会に変電所の容量は削減され、水銀整流器が下関と門司の両方から1台ずつ1949年(昭和24年)に東海道本線電化用に静岡県の藤枝変電所と磐田変電所に移設された。1951年(昭和26年)5月に電力事業再編成が行われ、下関変電区、門司変電区はそれぞれ中国電力、九州電力から受電することになった。 海水に常時さらされている関門トンネル内のレールは、電気車の運転電流が漏洩しやすく、電気化学的な作用により金属イオンが溶け出す電蝕が発生するという問題を抱えていた。このため戦中戦後の2回にわたり、通常は架線側がプラス、レール側がマイナスに印加されている直流1,500ボルトの電気の極性を逆転させて、レールをプラス、架線をマイナスにする極性変換試験が実施された。しかしこれには十分な効果が確認できなかったという。そこで1954年(昭和29年)に強制排流器が設置された。これは外部直流電源をレールと接地点の間につなぎ、運転電流の漏洩分を相殺してレールの電位を負にするものである。 1950年(昭和25年)6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、九州北部の駅は朝鮮半島方面へのアメリカ軍やイギリス軍の部隊の出動や補給の拠点となり、本州方面から北部九州への軍事輸送列車が多数関門トンネルを通過することになった。この際に、それまで関門トンネルには火薬類の通過制限が設定されていたが、アメリカ軍は火薬類通過制限の無条件解除を6月28日に指令し、危険を冒して輸送が実施されることになった。
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