戦時中から終戦直後
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第二次世界大戦(1939年9月1日から1945年9月2日間で)により、省営自動車は時代の要請による変化を余儀なくされる。戦時中においては軍需物資の輸送は国策上急務であり、これを受けて鉄道貨物の末端輸送や近距離輸送においては、省営自動車が輸送を担うようになった。さらに、戦争の激化に伴って輸送状態が逼迫すると、鉱石や木材の輸送を行う貨物自動車路線を次々と開設することになった。こうして、貨物輸送の比率は急上昇、終戦の1945年にはトラック1279台・バス674両という規模になった。 一方、資材不足により金属供出が行われるようになると、鉄道においても不要不急とされた線区(不採算線区や閑散線区)の撤去が行われることとなり、この代行輸送を省営自動車が行うことになった。 この時期、民間バス事業者においては陸上交通事業調整法ならびに陸運統制令による統合の通牒が出されていたが、省営自動車においてはほとんど影響を受けていない。富山県内を運行していた笹津線は富山地方鉄道に一本化するために廃止されたが、これは戦時統合によって廃止された唯一の省営自動車路線である。また、鉄道路線とは異なり、自動車路線は鉄道省による戦時買収の対象とはならなかった。鉄道路線を国に戦時買収された民営事業者のなかには、中国鉄道のようにバス会社として存続した事業者もある。 終戦(1945年となると、政府は国土復興のための開拓事業を奨励することとなり、省営自動車も開拓地域への路線を拡大することとなった。貨物輸送についても、占領軍からトラックの払い下げを受けた上で、復興物資の輸送に注力した。 1948年、連合軍最高司令部民間運輸局により、省営自動車の拡大には大幅な制限が加えられることとなった。占領下で産業自由化政策が進められている折、民間バス事業者の復興が優先されたためであり、省営自動車には戦時中の休止路線と民間との相互乗り入れを行う路線のみ、拡大が認められた。 1942年10月20日 - 古川自動車区、築館派出所を開設。 1943年2月28日 - 笹津線の運行を廃止。路線は富山地方鉄道に移管。 4月1日 - 樺太の内地編入に伴い、本斗自動車区と内路自動車区を開設。 9月1日 - 毛馬内支所を新潟鉄道局に移管、新潟鉄道局毛馬内自動車区となる。 9月15日 - 大湊自動車区開設。 10月1日 - 札沼線石狩月形駅 - 石狩追分駅間の休止に伴い、代行輸送を開始。 11月20日 - 沼宮内自動車区久慈支所、沼宮内自動車区葛巻支所開設。 1944年1月 - 八日市場自動車区多古支所開設。 6月 - 日之影駅 - 高森駅間にて、貨物専用路線の高千穂線を運行開始。高千穂自動車区開設。 12月11日 - 白棚線全線の休止に伴い、代行輸送を開始 。 1946年11月3日 - 仙台管理局仙台自動車区を開設。 1947年2月18日 - 仙台鉄道局遠野自動車区開設。 12月25日 - 仙台鉄道局岩泉自動車区開設。 12月27日 - 札幌鉄道局厚岸自動車区、同区標茶派出所開設。 1948年3月13日 - 仙台鉄道局一関自動車区開設。
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戦時中から終戦直後
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「神奈川中央交通」の記事における「戦時中から終戦直後」の解説
1940年10月になると、石油消費規制が強化されたことに伴い、保有車両の7割が代用燃料化された。さらに、1941年8月には液体燃料配給停止の措置がとられたため、保有車両の全車両が代用燃料化されることになった。 当初は代用燃料は木炭と薪が使用されていた。神奈川県内では清川村が良質の木炭の産地であった。地元民からは「木炭を特別に配給するからダイヤの完全運行をしてほしい」という依頼もあったという。ところが、1945年に入ると県内産木炭の入荷が途絶え、やむを得ず福島県から鉄道輸送によって木炭を入手することになった。しかし、神奈川県産の木炭と比べるとガス発生量は少なかったという。その福島県産の木炭さえも入手が難しくなり、最終的にはほぼ薪に頼る状態となった。 薪については、代用燃料導入当初は、ガス発生にも適する状態のよく乾燥された良質の薪が入手できていたが、1944年頃からは乾燥が不十分な状態のままで入荷することになった。薪の産地は丹沢の森林地帯で、トラックや座席を撤去したバスで足柄上郡三保村まで直接取りに行っていたという。終戦直後になると、薪の加工工場の生産能力が間に合わず、1946年には渋沢に薪生産工場を設けて自社生産を行った。 燃料以外の保守部品も不足しており、エンジンオイルは鉱物油・植物油・魚油を混合したものを使用し、しかも一度使用したオイルは再生の上配給に回された。窓ガラスが破れた場所には板が張られ、雨漏りの補修もままならず、雨の日には車内で乗客が破れた傘をさしている光景も見られたという。 なお、空襲を避けるため、横浜市内の路線を担当する戸塚営業所では全車両に装甲車に見えるようなカムフラージュを施して営業していたという。
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