進化論者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 09:24 UTC 版)
「ジョン・ギューリック」の記事における「進化論者として」の解説
1872年、ギューリックは「進化の大部分が、種の存続と無関係の偶然の変化の結果である」という理論を提案した。これは今日の「遺伝的浮動」という説にあたる。ハワイマイマイ類がほぼ同じ環境条件の下で生息していながら多様に種分化していたことに注目し、彼はこの理論に達した。この説は進化における偶然要因の重要性を認めること促進したが、彼が支持するダーウィンの自然選択説においては、モリッツ・ワグナーの"Migration theory"(移動理論)と一致しなかった。 1888年、ギューリックは二つの用語を提唱した。進化の上で観測できる種の多様化などにおいて、単一種が変化する"anagenesis"(向上進化、嘗てはtransformation)、多くの種分化が起こる"cladogenesis"(分岐進化)である。後にジョージ・ロマネスがこの用語を採用し、進化論の研究を行った。 ギューリックは後に、種分化の地理的モデルを提案し、「地理的な分化こそが種分化の唯一の道であった」とするモーリッツ・ワグナーと議論を行った。 彼はダーウィンの『ビーグル号航海記』に触発されて研究に入り、終始彼の「種が変化して別種になる」という説を支持してきた。ギュリックが標本を持って訪れた時、ダーウィンはとても喜び、議論を続けるために彼を夕食に誘ったと伝えられる。彼の研究が進化論を強く支持するものと考えたからである。しかしギュリックの考えはダーウィンと必ずしも同じではなかった。彼は種の分化において地理的隔離と、そして偶然の結果が重要であると考えていた。この2つはダーウィンも取り上げてはおり、しかし自然選択に比べれば重要なものでないと考えていたものである。 彼が研究対象としたハワイのカタツムリは主としてハワイマイマイ科とシイノミマイマイ科のもので、いずれもハワイ諸島に固有である。彼はハワイマイマイ科のものが極めて多くの種を含み、様々な斑紋や色の組み合わせを持つことを見いだした。それらは主として島ごと、あるいは同じ島でも谷ごとに隔離されており、それぞれが別種と判断された。特にオアフ島では山の稜線で区切られた谷ごとに異なる種が存在し、それらは稜線を境にしてわずかな距離で別種が存在する状況がある。そのような場合、それらは別種ではあるが、その生息環境や食べる餌は同じであり、その色や形の違いを適応で説明するのは難しい。むしろその変化は偶然に依存し、ランダムに変化するものと考えられる、とする。 彼は日本に移住した頃にエジンバラ大学のジョージ・ロマネスと手紙での交流を持った。ロマネスはダーウィンの最後の、そしてもっとも若い弟子であり、師が『種の起源』で充分に説明しなかった種分化の機構について自然選択説だけでは不十分ではないかと考えていた。そこからギュリックは種の違いについて考察を進め、種分化が異なる集団間で交配が妨げられる仕組み、つまり生殖的隔離であると考えるに至った。 ギュリックは1888年にハワイマイマイの研究に基づく種分化の理論を発表した。彼はその中で地理的に一まとまりの集団では生殖的隔離が生まれず、種分化も起こらないこと、種分化が生じるためには集団が地理的に隔離されなければならないこと、その際の変化は集団の持つ性質がランダムに起きることによる、とした。 彼はこのような考えから確率について数学的な面をも検討に入れた。1905年に発表した著作の中で、集団に参加できない個体や、あるいは個体群内のランダムな死亡が集団における変異の構成(個体群内にどんな模様の個体がどれだけいるか、というような)に対して影響を及ぼすことを述べた。具体例として、彼は火山噴火でカタツムリの個体がある程度まとまって死亡すると、それによって集団ごとのからの色に変化が生じることを上げている。これは後に『遺伝的浮動』と呼ばれるプロセスとして定式化される。 また大きな集団からごく一部が隔離された場合にも種分化が起きることを述べ、その際に大きな集団から少数をランダムに取り出すとその変異の構成は元の集団より偏ったものになることが確率的に予想される。つまりそこから生じた新たな集団は元の集団と異なったものになる。これは後に『創始者効果』と呼ばれるが、これは30年後のことであった。
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