戦時下の経営
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中部配電は資本金2億円をもって設立された。株式の額面金額は1株50円で総株数は400万株となる。このうち中部合同電気・信州電気両社の株主に33万8120株、その他の設備出資事業者に対し311万7523株をそれぞれ交付し、残りの54万4357株は縁故募集という形で株主に割り当てた。本店所在地は名古屋市中区南大津通2丁目5番地(現・中区栄3丁目17番12号)で、5階建ての元福寿生命保険建物を社屋とした。支店には戦災などでその後移転したものもあるが、本店は中部配電解散まで移転していない。経営陣は初代社長に海東要造(前東邦電力代表取締役)、初代副社長に鈴木鹿象(前東邦電力取締役)がそれぞれ就任し、その他の理事(取締役に相当)・監事(監査役に相当)は第一次統合における被統合事業者11社すべてから選ばれた。 前述の通り第二次統合においても電気供給事業設備の出資という形式による統合があるため、中部配電の資本金は設立後も増加を続けた。まず1942年10月1日付で木曽川電力・飛騨電灯の統合により2億375万4450円(株式数407万5089株)へと増資。次いで1943年3月1日付の犬居町営ほか25事業の統合に伴い2億625万円(株式数412万5000株)への増資がなされた。業績について見ると、発足から1943年上期までの3期は年率7パーセントという配当率を維持できたが、実際には政府が日本発送電に補助金を支給して配電会社への電力卸売り料金を操作し、会社側でも利益のほとんどを配当に回すことで、かろうじて維持された無理のある成績であった。こうした無理は戦時下のインフレーションに抗って政府が電気料金の低料金政策を採り続けたことに起因する。 配当率は1943年下期より企業課税強化のため低下していく。さらに戦局が悪化するにつれて戦災被害による直接的損害と供給・収入減少も大きくなり、業績悪化が深刻化した。1945年(昭和20年)7月になってようやく会社発足以来最初の料金値上げ(電灯5割増・電力2割増)に踏み切ったが、当時のインフレーションの前ではほとんど無意味であり、値上げを挟んだ1945年上期決算で中部配電は赤字・無配当に転落した。
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戦時下の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:16 UTC 版)
北陸配電は、公称1億3800万円・払込1億1948万5875円の資本金をもって発足した。翌1943年(昭和18年)8月30日、総株式数276万株のうち設立時から所有していた自社株6万株を償却し、公称1億3500万円・払込1億1679万5900円へと減資している。その後自社所有の日本発送電の株式を自社株と交換する形で自社株14万株を取得し、これを1945年7月3日付で償却して公称1億2800万円・払込1億1185万3400円へと再び減資した。 北陸配電の業績は、日本発送電や他の配電会社と同様に政府の操作が加えられたものであった。具体的には、政府は日本発送電の電力卸売料金を操作することで各配電会社が同水準の配当を捻出できるよう調整する(プール計算制)とともに、日本発送電に対しては政府補給金を支出して経営を支え、一般物価の上昇を抑える国策のために電気料金値上げを抑制したのであった。政府の操作によって計上された利益はほとんどが配当に回され、設立時から1943年上期までの3期は年率7パーセントの配当を維持したものの、企業に対する課税強化に伴い納税積立金を設定したため1943年下期以降は減配が続いた。 営業面では電気料金制度の整理・統一も進められた。北陸配電の発足当初は統合前の事業者の料金制度を暫定的に引き継いだが、1942年10月1日付で電灯について、同年12月1日付で電力について料金制度の社内統一が実現した。この段階では料金の地域的な格差が残ったが、戦争末期の1945年7月1日付で戦時下のインフレーションに伴う料金値上げが実施され(電灯は約5割増・電力は約2割増)、管内全域均一の電灯・電力料金となった。なお電灯料収入と電力料収入の比率は供給量よりも差が小さくおよそ1対3であった。
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