戦時下の映画とは? わかりやすく解説

戦時下の映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:04 UTC 版)

日本映画」の記事における「戦時下の映画」の解説

第二次世界大戦太平洋戦争)による国民国土疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響与えていた。1941年昭和16年)には、当時アメリカに次ぐ世界第2位の製作数である[要出典]年間500本を超える映画製作していた日本も、1945年昭和20年)には僅か26本の製作となっており、その影響伺える[誰によって?]。また、1939年昭和14年)に成立した映画法により、製作と配給許可制に、監督俳優は登録制となり、製作される作品についても、脚本段階検閲入った。 さらにABCD包囲網による経済制裁発動すると、アメリカからのフィルム輸入途絶え国産フィルム軍需品とされ、厳し使用制限かけられ映画業界にとって死活問題となった東宝はこれらの状況打破するため、軍部積極的に関わる事で活路見出したが、日活1942年昭和17年)に永田雅一主導による合併巻き込まれ大日本映画となり、日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオは、閉鎖合併繰返し映画産業規模急速に縮小し東宝松竹大映の3社を残すのみとなった。 当然、戦争主題とした映画主として製作され田坂具隆は『五人の斥候兵』(1938年)で、戦場における信頼テーマとした作品撮りヴェネツィア国際映画祭入賞果たした皇紀2600年記念阿部豊『燃ゆる大空』1940年)では実写重きを置いた航空映画として、陸軍航空本部監修により実物戦闘機爆撃機撮影使用された。吉村公三郎製作した間諜未だ死せず』(1942年)は戦意高揚訴え映画が続く中で、スパイへの警戒訴えた珍しい切り口映画となったまた、山本嘉次郎『ハワイ・マレー沖海戦』1942年)では、真珠湾攻撃再現した特撮担当円谷英二による精巧なミニチュア話題呼び軍神加藤建夫飛行第64戦隊描いた『加藤隼戦闘隊』1944年)では、陸軍全面協力により実物戦闘機爆撃機および連合国軍鹵獲機が多数出演し円谷特撮と高度な合成技とともに迫力ある作品となった厳し検閲の目をかわし、反戦訴え作品製作した監督としては亀井文夫挙げられる。『支那事変』(1937年)や『上海』(1938年)などでは表向き戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍行軍を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情フィルム収めるなど、意図的な映像流した。続く作品『戦ふ兵隊』1938年)は上映禁止となり、亀井免許剥奪の上検挙されてしまう。 また、戦争主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品一律禁止され稲垣浩『宮本武蔵』溝口健二の『元禄忠臣蔵』など、厳粛な叙事詩的作品製作された。1940年代前半登場した黒澤明は『姿三四郎』(1943年)においてその頭角現した。1945年昭和20年)に最終決戦呼びかけるために製作が検討されていたジャンヌ・ダルク原作とした『荒姫様』は、同年日本の敗戦によりお蔵入りとなっている。 1937年8月映画巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などの1枚タイトル挿入した1944年12月7日、映配は、生フィルム欠乏のために、731映画館(約40%)に配給休止宣告した

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