戦時下の映画
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第二次世界大戦(太平洋戦争)による国民と国土の疲弊は、映画産業界においても、甚大な影響を与えていた。1941年(昭和16年)には、当時アメリカに次ぐ世界第2位の製作数である[要出典]年間500本を超える映画を製作していた日本も、1945年(昭和20年)には僅か26本の製作となっており、その影響が伺える[誰によって?]。また、1939年(昭和14年)に成立した映画法により、製作と配給が許可制に、監督と俳優は登録制となり、製作される作品についても、脚本段階で検閲が入った。 さらにABCD包囲網による経済制裁が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった。東宝はこれらの状況を打破するため、軍部と積極的に関わる事で活路を見出したが、日活は1942年(昭和17年)に永田雅一の主導による合併に巻き込まれて大日本映画となり、日活の名は消えていった。戦前数多く存在した独立スタジオは、閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹、大映の3社を残すのみとなった。 当然、戦争を主題とした映画が主として製作され、田坂具隆は『五人の斥候兵』(1938年)で、戦場における信頼をテーマとした作品を撮り、ヴェネツィア国際映画祭で入賞を果たした。皇紀2600年記念の阿部豊の『燃ゆる大空』(1940年)では実写に重きを置いた航空映画として、陸軍航空本部の監修により実物の戦闘機や爆撃機が撮影に使用された。吉村公三郎が製作した『間諜未だ死せず』(1942年)は戦意高揚を訴える映画が続く中で、スパイへの警戒を訴えた珍しい切り口の映画となった。また、山本嘉次郎の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)では、真珠湾攻撃を再現した特撮担当の円谷英二による精巧なミニチュアが話題を呼び、軍神加藤建夫と飛行第64戦隊を描いた『加藤隼戦闘隊』(1944年)では、陸軍の全面協力により実物の戦闘機や爆撃機および連合国軍の鹵獲機が多数出演し、円谷の特撮と高度な合成技術とともに迫力ある作品となった。 厳しい検閲の目をかわし、反戦を訴える作品を製作した監督としては亀井文夫が挙げられる。『支那事変』(1937年)や『上海』(1938年)などでは表向きは戦意高揚映画と謡いつつも、日本軍の行軍を見つめる民衆や、疲弊した兵の表情をフィルムに収めるなど、意図的な映像を流した。続く作品『戦ふ兵隊』(1938年)は上映禁止となり、亀井は免許剥奪の上検挙されてしまう。 また、戦争を主題としない作品についても、荒唐無稽な娯楽向け作品が一律禁止され、稲垣浩の『宮本武蔵』や溝口健二の『元禄忠臣蔵』など、厳粛な叙事詩的作品が製作された。1940年代前半に登場した黒澤明は『姿三四郎』(1943年)においてその頭角を現した。1945年(昭和20年)に最終決戦を呼びかけるために製作が検討されていたジャンヌ・ダルクを原作とした『荒姫様』は、同年の日本の敗戦によりお蔵入りとなっている。 1937年8月、映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などの1枚タイトルを挿入した。1944年12月7日、映配は、生フィルム欠乏のために、731の映画館(約40%)に配給休止を宣告した。
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