戦時下の日ソ関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:42 UTC 版)
日ソ基本条約が結ばれた一方で、ソ連の主導した共産党の世界組織コミンテルンは、1922年に日本共産党を日本支部に指定してその地下活動を援助しており、日本の当局者を刺激していた。また、1924年には外モンゴルでソ連はモンゴル人民共和国を成立させ、モンゴルを勢力圏に置こうとしていた。このような状況を背景にして、日本では軍部を中心に満州を極東に押し寄せる共産主義からの防衛線とすべきであるという考えが芽生え、これが同地を確保して日本の生命線とする構想が進められる一因となっていった。このような時代的な背景により、1932年に満州事変が勃発、日本の後ろ盾のもとに満州を領域とする満州国(満洲帝国)が建国される。ソ連は満州国を承認しなかったが、ロシア帝国から引き継いでいた北満鉄路(旧東清鉄道)を満州国との合弁で経営し、1935年にこの利権を日本の南満州鉄道に売却して、満州からの撤退と勢力圏の整理を行った。 また、ソ連は極東に住む朝鮮人(高麗人)に「スパイ」容疑をかけて中央アジアに追放する一方で、朝鮮半島や満州で抗日パルチザン活動を行う朝鮮人・中国人グループを支援していた。赤軍に編入された朝鮮人部隊の司令官が金日成で、そのソ連滞在中の1942年に生まれたのが息子の金正日であるとされている(金日成と金正日が指導者となった北朝鮮の公式発表では別の説明がされている)。 軍事的には満州国の建国以来、満州に駐留する日本の関東軍とソ連赤軍との間で緊張関係が続き、何度かの武力衝突が行われた(日ソ国境紛争)。1938年にはソ連と満州の国境紛争(張鼓峰事件)、1939年5月からはモンゴルと満州との国境紛争から大規模なノモンハン事件が起こった。両事件では日ソ両軍に大きな損害を出したが、ソ連軍の機甲部隊に大きな損害を与えられた日本側では「敗北」の認識が強く、その後の北進論に否定的な影響を与えた。 1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、その直前に独ソ不可侵条約が結ばれるという激変の中、アジアでは日本と米・英・蘭との間での緊張が強まった。そこで、南進論によってイギリスとアメリカとの対立激化が避けられない日本と、不可侵条約を結んだナチス・ドイツとの関係が常に不安定なソ連の両国は自分の背後を固める必要性に迫られ、1941年4月に日ソ中立条約を結んだ。 しかし、同年6月にドイツが不可侵条約を破棄してソ連と戦争を始めると、7月日本軍は70万の兵士を関東軍特種演習と称して満蒙国境線に配備したが、南進計画決定により8月に中止された。これによりソ連軍は精鋭部隊を満州国境からヨーロッパに投入し、モスクワ攻防戦などでのドイツ軍撃退に成功した。この時期の日本政府の戦略情報はソ連が送り込んだドイツ人スパイ、リヒャルト・ゾルゲなどが作った秘密情報網によってソ連(赤軍参謀本部)に漏れていた。この組織は10月にゾルゲ事件として摘発され、ゾルゲと日本側中心人物の尾崎秀実は1944年11月7日(十月革命記念日)に処刑された。また、1941年12月には太平洋戦争が勃発し、日ソ両国の開戦の可能性は遠のいた。 その後、第二次世界大戦は連合国側の勝利が確実となり、日本では1944年7月に成立した小磯国昭内閣及び続く鈴木貫太郎内閣の時にソ連を仲介者とした和平交渉の可能性が模索された。一方、ソ連側は対独戦勝利の後に日本に侵攻し、日露戦争でロシア帝国が失った領土や権益を奪回をする事を狙い始めた。1945年2月のヤルタ会談で、ソ連のスターリン書記長はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から対日参戦条件として南樺太・千島列島、その後の北方領土を含む)の返還(併合)などを引き出し、ドイツ降伏後3ヶ月で対日攻撃を開始する秘密協定に調印した。これを受け、ソ連は4月に日ソ中立条約の非延長を通告し、1946年4月で同条約が失効することになった。また、近衛文麿元首相をソ連に派遣して和平交渉を行おうとした提案を拒否し、ソ連軍は大量にヨーロッパから極東へと移送された。日本側では関東軍司令部がこの異変を察知して民間人男子の「根こそぎ動員」による消極的防衛策を練ったが、和平交渉の仲介に期待する中央政府は目立った対応をしなかった。 そして8月8日にソ連は有効期間が残っていた日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告を行い、日本側勢力圏の満洲帝国、それに日本領の朝鮮半島北部(北緯38度線以北)・南樺太・千島列島を侵攻・占領した。9月2日に日本が降伏文書に調印するまで(歯舞諸島は降伏文書調印後に占領)約1ヶ月続いたこの戦争で多くの日本人が犠牲となり(満州各地の開拓団などの民間人による多数の集団自決事件を含む)、民間人への略奪・婦女暴行事件も頻発した。また、降伏した日本軍(関東軍)将兵は捕虜としてシベリア(一部は中央アジアやヨーロッパ・ロシア)へと抑留された(シベリア抑留)。ソ連側も占守島の戦いなどで大きな損害を出し、スターリンによる北海道分割占領提案は戦後のソ連の強大化を警戒するアメリカのハリー・トルーマン大統領に拒否されたが、対日作戦そのものは勝利に終わり、ソ連はヤルタ秘密協定で示された参戦の見返りをすべて獲得した。
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