戦時下の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 00:15 UTC 版)
1939年(昭和14年)-1941年(昭和16年)、東京帝国大学航空研究所の技手を兼任した。この頃から、論文発表のペースが極度に低下するが、1941年に「筋違いの耐震効果の理論」と題する研究で工学博士(東京帝国大学)の学位を取得した。同年には地震研究所の技師となっている。終戦前後は田中貞二、鈴木富三郎、長田甲斐男、吉沢静江、森下利三等々と共同で研究にあたっている。1942年(昭和17年)には「地震研究所談話会」(第19回)で田中貞二とともに「退避壕内における爆風圧分布の測定」に関する研究を発表した。1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震と1945年(昭和20年)1月13日の三河地震の調査を行っていたが、金井の留守中に調査記録は焼却処分されてしまった。1945年8月に広島へ原爆が投下されると、被害調査による爆心地推定作業のため広島へ赴いた。金井は熱線による影の方向を基礎データとして、その方向を地図上に落とし交差する地点を爆心地と推定し、570メートル(±20メートル)上空の地点で炸裂したと発表した。また、長崎への原爆投下による爆心地推定作業にも参加している。
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