戦時下の皇后
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香淳皇后は、1932年(昭和7年)4月、1933年(昭和8年)4月、1937年(昭和12年)4月に靖国神社を参拝していたが、支那事変(のち日中戦争)の勃発以降は年2回参拝(若しくは天皇の親拝に合わせて宮城で黙祷)するようになった。1933年10月と1941年3月には、単独で同神社を参拝している。 香淳皇后はさらに、1938年(13年)春~初夏にかけて、皇族妃・王公族妃を日本・朝鮮・台湾に派遣し、病院や療養所を慰問させた。皇后の名代として、皇族妃を各地に派遣することを通じ、「国母」「慈母」のイメージを浸透させていった。そして自身も戦前・戦時中にかけて単独公務を行い、日本各地への行啓が当時のニュース映画などでも報道された。この頃には、新聞やラジオ、ニュース映画等のメディアにおいて「国母陛下(こくぼへいか)」という呼称も用いられていた。同年10月27日に武漢を攻略すると、昭和天皇と香淳皇后は過去になく、夜、二重橋に現れた。 1940年(昭和15年)には紀元二千六百年記念行事が執り行われ、11月10日には記念式典が、11月11日には奉祝会が皇居前広場で行われ、昭和天皇とともに臨席した。香淳皇后は、夫帝に付き従うスタイルを貫いていたが、11月11日の夜になって照宮、孝宮、順宮、義宮の4子を伴って二重橋前に現れ、天皇や皇太子(継宮)とは異なる主体として、かつ「母」のイメージで国民の歓呼に応えようとした(実際には暗く、皇后らの持った提灯しか見えなかった)。1941年(昭和16年)5月15日から20日までの6日間で単独で三重県・奈良県・京都府を行啓したが、神社や天皇陵以外では、京都陸軍病院(現在の国立病院機構京都医療センター)と修学院離宮のみであった。唯一、18日の3万人が動員された奉迎式が「君民一体」を現出し、皇后の実像が「慈母」のイメージに重ね合わされた。 同年12月8日、真珠湾攻撃及びマレー作戦により対英・米開戦し(大東亜戦争/太平洋戦争開戦)、翌1942年(昭和17年)2月15日にはシンガポールを陥落させた。2月18日、戦勝祝賀式に際し、騎乗した天皇が二重橋前に現れた後、皇后は照宮、孝宮、順宮、そして継宮(皇太子)を伴って二重橋に現れ、十数万人の市民の歓呼に応えた。 例年、皇后誕生日には恩師でもある野口幽香を宮中に招き歓談していたが、この年初めて、クリスチャンである野口は皇后からキリスト教(聖書)の講義を行うよう求められた。このことは女官長保科武子や女官伊地知幹子も支持し、皇后宮大夫広幡忠隆も尽力した。同年4月から1947年(昭和22年)5月まで、計15回にわたり野口から進講を受けた。 1943年(昭和18年)春~秋にかけて、再び皇族妃・王公族妃を各地の視察・慰問に派遣した。自らも5月19日に東京市内を視察したが、質素ながら調えた衣服で、また積極的に臣民に声をかけて回った。5月13日には野口から約11か月ぶりに第4回目の進講を受けたばかりであり、皇后の変化にはキリスト教思想の影響が指摘されている。同様に6月18日に第5回目の進講を受け、6月21日の多摩御陵を参拝後に南多摩郡七生村(現日野市)の農村を視察した際も、熱心に視察し、大きく報道で取り上げられた。天皇の地方視察が無くなる一方、皇后や皇族妃の姿が可視化され、質素倹約の模範となった。 同年10月13日、第一皇女照宮成子内親王が盛厚王(東久邇宮稔彦王第一男子)と結婚。翌1944年(昭和19年)には他の5人の皇子女達も疎開(学童疎開)して東京を離れたが、皇后自身は昭和天皇とともに夫婦で東京都に留まった。同年9月30日には、宮中服が定められ、皇后は戦後まで長く着用した。12月23日、皇后は皇太子継宮の11歳の誕生日に合わせ全国の疎開児童にビスケットを配布し、御歌(みうた、和歌)を添えて激励した。 またこの頃には、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の乗る自動車には同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、国民と同じように皇室への食糧配給も厳しくなる中、天皇と夕食を共にする際、二人で相談して、必ず料理の一皿か二皿を残し、侍従や女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行い、さらに敗戦後は引揚者のための布団や着物作りを行った。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲の中、東久邇宮家に嫁した盛厚王妃成子内親王が長男の信彦王を防空壕で出産した。昭和天皇と香淳皇后にとって初孫の誕生となった。そして、同年8月15日、夫の昭和天皇によるラジオの玉音放送を聞き、敗戦を迎えた。
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