戦時下の自主規制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 08:58 UTC 版)
「日本野球連盟 (プロ野球)」の記事における「戦時下の自主規制」の解説
上述のアメリカとの関係悪化により、野球が敵国アメリカの国技であるために、陸軍と文部省からの通達もあり、日本野球連盟は英語使用を徹底的に自主規制した。球団名や球団旗ロゴ、用語等の日本語化が押し進められた。 球団名では大阪タイガースが「阪神軍」、東京セネタースが「翼軍」になるなど改称を強いられた(参照)。 野球の用語はアメリカから伝来した性格上カタカナ英語が多かったが、その全てが日本語に改められた。更に一部の日本語用語も、より健闘精神を煽るものへと変えられた。以下はその一例。 リーグ戦 「連盟戦」 ストライク 「よし1本」(ストライクバッターアウトは「よし3本、それまで」) ボール 「だめ」、あるいは「1つ、2つ、3つ、4つ」 アウト 「引け」 監督 「教士」 選手 「戦士」 マネージャー 「秘書」 他にも延長戦の時間・イニング制限が無くなり、引き分けは天候や日没によるコールドのみに。また犠牲フライが打数に加算されるようになった。1943年頃からユニフォームの国防色使用と、戦闘帽の着用が指示され、卑怯な戦術であるとして隠し球も禁止された。1944年には個を主張してはならないとの理由から背番号の使用も禁止された。 日本人選手以外のいわゆる外国籍選手(当時はハワイ出身の日系人が主)も政府の帰国令などで締め出される形となった。無国籍であったヴィクトル・スタルヒン(当時・東京巨人軍)は登録名を「須田博」として出場、更には戦況悪化に伴い追放・軽井沢に抑留された。 なお、大学野球、中等学校野球などは大衆人気が高かったことと、軍部命令により早期に公式大会が中止されたため、職業野球が行なったこれらのような延命策を採らなかった。用語の言い換えなども職業野球でのみ使用され、一般にはそれほど浸透しなかった。
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