戦時下の日本とその周辺
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バスに乗り遅れるな 日華事変勃発とともに、出版社の依頼により作家が戦地へ派遣され、多くの報告文学が生まれた。その中で『中央公論』の特派員として南京攻略戦に従軍した石川達三は戦地の現実に深い衝撃を受けて「生きてゐる兵隊」を執筆したが、戦争の残酷さを描いたことから「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発禁処分を受け、作者と発表誌『中央公論』の編集者は「新聞紙法違反」として起訴され、石川は禁固4ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。徳田秋声「戦時風景」では東京の花街の日常の中に、召集を受けた男の感情を綴っているが、のちの「卒業風景」(1941)では戦争がまったく描かれないことから「時節柄風俗上甚だ面白からざる」として発禁処分となった。 天津・北京を見た尾崎士郎は「悲風千里」で中国民衆への同情もにじませた。また従軍した兵士・軍人の手記、報告類が一般読者には歓迎され、上田広の鉄道部隊の労苦を描いた「鮑慶郷」「黄塵」や、藤田実彦『戦車戦記』、棟田博『分隊長の手記』などをがある。召集されて第二次上海事変に従軍した日比野士朗の『呉淞クリーク』では、激烈な戦闘を描きながら、「戦記文学に要求される皇軍意識とは無縁」に自分の心情や、戦死した戦友への鎮魂の思いを記している。従軍看護婦だった大嶽康子の日記体の『病院船』は百版を重ねるほどとになり、続いて多くの従軍軍看護婦ものが出版された。 火野葦平は1937年に戦地で『糞尿譚』により芥川賞受賞の報を受けて注目され、翌1938年に軍報道部員として徐州会戦に従軍することを命じられ、この戦場体験を記した「麦と兵隊」は、国民に喝采をもって受け入れられ100万部ともいわれるベストセラーとなり、火野は続いて「土と兵隊」「花と兵隊」などを発表。1943-44年に新聞連載された『陸軍』は「火野の最高傑作」(安田武)と呼ばれ、1945年8月20日発行を予定されていたが、敗戦とともに裁断され、終戦とともに戦犯作家として休筆を余儀なくされている。 1939年のノモンハン事件では、野砲中隊長として戦闘に参加していた草葉栄『ノロ高地』(1941)がベストセラーになった他、樋口紅葉『ノモンハン実戦記』、田中英次『闘魂』、松村黄次郎『撃墜』、入江徳郎『ホロンバイルの荒鷲』、高島正雄『バルシャガル草原』が刊行されたが、陸軍による日本軍の勝利の喧伝を助けるような内容のものだった。 この頃科学小説を書いていた海野十三は、「空襲葬送曲」(1932)、「東京要塞」(1938)などの架空戦争小説で、科学知識を活かして戦争の悲惨さを描いた。少年時代に満州で育った北川冬彦『戦争』(1929)では、「義眼の中にダイヤモンドを入れて貰ったとて、なんになろう。」といったアヴァンギャルド詩、新現実主義のスタイルの表現を創造した。 国策文学 1938年8月に内閣情報部は漢口攻略戦への作家の従軍を要請し、「ペン部隊」として陸軍班14人、海軍班8人が、音楽家による「円盤(レコード)部隊」や、画家によるグループとともに従軍。次いで11月には南支従軍ペン部隊として10数名が従軍、林芙美子『戦線』、丹羽文雄『海戦』、岩田豊雄(獅子文六)『海軍』など、文学者の視点による作品が書かれ、岸田國士の従軍報告では中国における日本の文化工作批判を行った。一方で新聞社から派遣された小林秀雄も、国策のための文学者動員を批判した。この年には農民文学振興を目的として「農民文学懇話会」が結成され、続いて大陸開拓文芸懇話会、海洋文学協会、経国文芸の会、国防文芸連盟、輝く部隊、日本文学者会などが設立される。1940年に大政翼賛会が設立されると、日本文芸中央会という翼賛会文芸部との連絡協議会が作られ、1942年に各団体を併合した日本文学報国会が作られる。 こうした流れの中での国策文学として、立野信之「後方の土」、徳永直「先遣隊」、湯浅克衛「先駆移民」などの大陸文学、間宮茂輔「あらがね」、中本たか子「南部鉄瓶工」、橋本英吉「坑道」などの生産文学などが書かれた。1941年12月8日の対米開戦には、多くの文学者が日記にて感慨を記しており、「ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念が湧くのをも覚えた」(伊藤整)、「世界は一新せされた。時代はたつた今大きく区切られた」(高村光太郎)などどあり、多くの詩人、歌人、俳人が感動をうたった。太宰治の小説『十二月八日』は主婦の日記という体裁で戦争への期待を語らせている。 1941年には数十人の作家、画家、漫画家、記者などが軍報道班員として徴用され、マレー、ビルマ、ジャワ・ボルネオ、フィリピンなど各方面に派遣されて従軍記などを著した。日本文学報国会は、大東亜共同宣言の五大原則についての作品執筆依頼や、佐佐木信綱らによる「愛国百人一首」の選定、大東亜文学者大会の開催などを行った。また『新青年』などの娯楽雑誌でも国際スパイ小説や軍国調の作品が書かれ、一方で岡田誠三『ニューギニア山岳戦』(1944)では兵士達の悲惨な最期が描かれた。小川未明は発禁処分を受けた「野薔薇」(1928)などの反戦童話・小説を執筆したが、戦時下には戦争協力の童話「僕も戦争に行くんだ」(1937)や、傷痍軍人保護政策キャンペーンによる『銃後童話読本』(1940)掲載の「村へ帰った傷兵」などを書いた。佐多稲子は「香に匂ふ」「故郷の家」(1942)などの、銃後で戦争を支えるという形での女性の社会参画を描いたが、戦後新日本文学会では戦争責任を問われることになる。当時の戦争文学諸作品を総じて、伊藤整は「叙述形式の素朴化は、決して小説の貧困ではなく、精神の厳しさと事実の重さとによって生じた不可欠の帰趨であり、日本民族の思考と生活にとっての絶対的なものを選みけっていし、そこから新しく歩みだすための準備」と評している。 詩の分野では日米開戦後はほとんどの詩誌が廃刊して日本文学報国会詩部会に統合され、多くの詩人が戦争誌を書いた。高村光太郎「大いなる日に」、室生犀星「美以久佐」などの他、文学報国会からは150人あまりによる戦争誌アンソロジー「辻詩集」が刊行された。その中で金子光晴のみは疎開先の山中湖畔で反戦詩を書き続け、戦後に『落下傘』『蛾』として発表された。 1937年には「川柳人」の反戦的作品が特高に検挙され、1940年には自由主義的な「京大俳句」の平畑静塔ら十数名が検挙される新興俳句弾圧事件が起きるなどの弾圧が行われ、1942年に日本文学報国会俳句部会に俳句界は統一された。短歌では大日本歌人協会による「支那事変歌集・戦地篇」が1938年、「銃後篇」が1941年に刊行されるが、歌人協会は自由主義的傾向を攻撃されて解散、文学報国会に吸収され、戦時短歌が満ち溢れた。 また明治以来、日清戦争における木口ラッパ兵や「水平の母」、日露戦争における軍神広瀬少佐、第一次上海事変における爆弾三勇士など多くの軍国美談が、報道や美談集のような書籍、物語などで広く知られ、学校教科書や教材でも取り上げられた。火野葦平や、脚本家でやはり帰還兵である中野実も『軍国美談集』『善行美談集』の執筆に加わった。 台湾・朝鮮・中国・満州 日本占領下の台湾でも文芸銃後運動の影響が及び、1943年に日本文学報国会台湾支部が設立、台湾文芸家協会は台湾文学奉公会に移行し、台湾皇民文学樹立を目指す運動がなされる。その過程上にある、周金波「志願兵」や高進六「道」などが書かれ、また反面で占領や兵士として動員される苦悩を描く呉濁流『胡太明』がひそかに書かれて戦後になって出版された。同じく朝鮮では、1939年に内鮮一体のスローガンを掲げた朝鮮文人協会が創られ、のち朝鮮文人報国会に発展。張赫宙『岩本志願兵』(1944)では内地に住む朝鮮人の少年が志願兵となるまでの姿を描いている。 抗日戦線下の中国では、茅盾によって第一次上海事変下の農民や商人を描く短編小説「春蚕」「林商店」(1932)、国民党の特務工作員を描く『腐蝕』(1941)などが書かれ、続いて茅盾は占領された香港を脱出して桂林、次いで重慶に移り、香港陥落を扱った「陥落後」(劫後拾遺、1943)、抗戦のために工場を上海から杭州に移転する工場主を描く戯曲「清明前後」(1945)などを書いた。毛沢東の「文芸講話」の影響を受けた趙樹理には、閻錫山と蔣介石の内戦から抗日戦争が終わるまでの農村を描いた『李家荘の変遷』(1945)などがある。延安で革命運動に身を投じて宣伝教育工作に従事していた女流作家丁玲は、抗日戦に立ち上がろうとする農民の姿を描いた「霞村にいた時」などを書いた。 満州国では、北村謙次郎による建国当時の争乱を語る『春聯』(1942)など日系作家による「開拓文学」や、古丁ら中国系作家による「面従腹背」作品が書かれていたが、1941年に弘報処の公布した「芸文指導要綱」に基づく芸文統制が進められ、種々あった文学団体も満州芸文聯盟に統合されていった。
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