戦時下の政界復帰
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1936年2月、立憲民政党に入党し、同党の公認候補として第19回衆議院議員総選挙に岩手第2区から立候補して当選。同年4月、民政党青年部長。 1937年1月、永田秀次郎らと宇垣一成内閣成立に参画するも、陸軍の反対に遭い、失敗。同年4月、衆院解散を受けて行われた衆院選では岩手第2区から立候補し、当選。同年5月、民政党岩手県支部長。同年12月、人民戦線派の一斉検挙で逮捕された姪の石本静枝の釈放に尽力。同月、国民使節として渡米、中学を中退していた俊輔を同行させる。1938年2月、訪問先のニューヨークから弟・定雄に、(日中戦争勃発、南京虐殺事件後)米国での反日感情が高まっていることに触れ、米国との開戦を避けるために、国際商業会議所・ワトソン議長を介して中国との和平・調停工作を行うよう指示。1938年5月に設立された太平洋協会 の常務理事に就任。実質的に会を主宰した。同年10月、河合教授事件で河合栄治郎の著書が発禁となり、鶴見は係争中の河合を支援。 1940年1月に成立した米内内閣で内務政務次官に就任するも、同年7月に同内閣は総辞職。同月から8月にかけて各政党は解党し、大政翼賛会に合流した。1942年4月の衆院選(いわゆる翼賛選挙)では岩手県第2区から立候補し、「ローズヴェルトの親友を葬れ」と攻撃されながらも、当選。同月上旬には「対敵宣伝機関創設案」を起草し、陸海軍関係者、情報局陸軍関係者の賛同を得たが、情報局の反対に遭い、実現せず。鶴見はこの間、太平洋協会の仕事に従事し、1941年12月から1943年12月にかけてラジオに出演し、米国の国情を説明するなどした。 1944年9月、 翼賛政治会(1945年3月以降は大日本政治会)の総務となる。同年12月、九段の憲兵隊司令部で取り調べを受ける。同月、小磯内閣で政府が設立した朝鮮及台湾在住同胞政治処遇調査会の衆議院代表委員。1945年5月、熱海へ疎開。
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