戦時下の改編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:41 UTC 版)
1941年12月、太平洋戦争が開始されると、学徒出陣に向け修業年限が2年9ヶ月に短縮され、卒業式は繰り上げて実施された。さらに、戦時体制のもとで高商は軍部から不要不急の教育機関とみなされるようになり、1944年4月には国内の官立高商のうち3校が工業専門学校に転換され、残りも経済専門学校と改称された。長崎高商は工専への転換は免れたが工業経営専門学校を併設することとなり、長崎経済専門学校と改称し卒業までの高商生の受け入れ機関として扱われることとなった。また戦時色が強まるなか研究館も1942年9月には「大東亜経済研究所」と改称された。 しかし戦局の悪化とともに1944年5月以降、学徒動員が開始され、生徒たちが三菱兵器製作所、三菱造船所、川南造船所などに交替して出勤するようになると、経専・工経専での教育は次第に形骸化していった。戦争末期の1945年8月9日の原爆投下に際しては、経専の校地は爆心地から離れていたため学校自体の被害は僅少で、壊滅状態となった長崎医大の臨時本部が設置されることとなったが、動員先での被爆により27名の犠牲者を出した(後出)。
※この「戦時下の改編」の解説は、「長崎高等商業学校」の解説の一部です。
「戦時下の改編」を含む「長崎高等商業学校」の記事については、「長崎高等商業学校」の概要を参照ください。
- 戦時下の改編のページへのリンク