自由主義的傾向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 08:11 UTC 版)
「ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)」の記事における「自由主義的傾向」の解説
1822年頃を境に反動的状況が変化した。1822年に外相となったジョージ・カニング、同年に内務大臣となったロバート・ピール、1823年に財務大臣となったフレデリック・ロビンソン、同年商務庁長官となったウィリアム・ハスキソンらはトーリー党内自由主義派とも言うべき人材だった。1824年には労働者弾圧を推し進めた保守派の代表格だった初代シドマス子爵ヘンリー・アディントンが引退し、やはりトーリー自由主義的なロバート・ピールがトーリー党の中心となった。。 これによりリヴァプール伯爵内閣は自由主義的な傾向を示すようになった。カニングは自由主義外交を行い、東方問題(ギリシャ独立戦争)でギリシャのトルコからの独立を支援した。また1823年のヴェローナ会議ではヨーロッパ諸国に自由主義的な傾向を見せ、南米諸国のスペインからの独立も支援し、南米向けの輸出を急増させることに成功した。ロビンソンによって自由貿易が推進され、それにより景気は回復していった。これらの処置は後の「自由貿易帝国主義」の基礎となった。すでに1821年に関税の引き下げをしていたが、1823年にももう一度関税の引き下げを行った。また内政では新内務大臣ピールの主導で死刑罪状を減らす刑法の厳罰主義を改める改革が行われた。1824年に団結禁止法も廃止し、翌年の労働者団結法で労働組合を解禁し、同年の紡績工場規制法で違法に労働者を働かせている工場を規制した。こうした「自由トーリー主義」と呼ばれる政策により政権は再び安定し始めた。
※この「自由主義的傾向」の解説は、「ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)」の解説の一部です。
「自由主義的傾向」を含む「ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)」の記事については、「ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)」の概要を参照ください。
- 自由主義的傾向のページへのリンク