新聞の発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)
この時代の文化状況を考える際に重要なのは、新聞メディアの発達である。特に自由主義者たちによる『プレッセ(ドイツ語版)』(名称変更後は『ノイエ・フライエ・プレッセ(新自由新聞)』)は上品な高級紙とされ、特に文芸欄の批評には定評があった。ここで批評家として活躍した人物にカール・クラウス(後述)がおり、多くの知識人によって購読された。音楽批評では博学なエドゥアルト・ハンスリックがリヒャルト・ワーグナーの音楽を酷評していた。 『ノイエス・ヴィーナー・タークブラット(ドイツ語版)(新ウィーン日報)』は、ルドルフ皇太子が匿名で自由主義的な論文を書いたことで知られる。父帝フランツ・ヨーゼフ1世がドイツ帝国との同盟を維持していたのに対し、ルドルフはフランスと同盟すべきとの意見をもっていたが、彼の立場では自由な意見を表明できなかったので、友人のモーリッツ・ツェプス(ドイツ語版)が編集長を務める同紙に投書して掲載に及んだこともあった。今日ではルドルフの方が先見の明があったのではないかという指摘さえある。 新聞ジャーナリズムは、ユダヤ系の人々の活躍のめざましい世界であった。上の両紙はじめウィーンのほとんどの自由主義的傾向の日刊紙の経営者や編集長はユダヤ系によって占められていた。編集長以下のジャーナリストも5割から6割にかけてがユダヤ系だったといわれる。
※この「新聞の発達」の解説は、「世紀末ウィーン」の解説の一部です。
「新聞の発達」を含む「世紀末ウィーン」の記事については、「世紀末ウィーン」の概要を参照ください。
- 新聞の発達のページへのリンク