史上最高の繁栄と崩壊 (1918年〜1939年)
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「アメリカ合衆国の歴史」の記事における「史上最高の繁栄と崩壊 (1918年〜1939年)」の解説
詳細は「アメリカ合衆国の歴史 (1918-1945)」、「狂騒の20年代」、「世界恐慌」、および「ニューディール政策」を参照 大戦後はウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟を設立、国家間の紛争を防止しようと積極的に整備を進めたが、孤立主義を守ろうとする保守的な議会の決議によってアメリカ自身は不参加という結果となってしまった。ウィルソンによって掲げられた高い理想の達成が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなる。また、1919年のパリ講和会議での人種差別撤廃案を廃案に追いやった。国内ではレッドサマー、シカゴ人種暴動、オマハ人種暴動、エレイン人種暴動などの人種暴動が勃発した。 経済は、消耗したヨーロッパに変わって世界の工場として輸出を拡大、国際的にも大戦に消極参加だったアメリカと日本が大国として存在感を増し、両国は史上初めての繁栄を謳歌した。米国内では、戦争から帰還した若者を中心に刹那的な文化が台頭し、急速に消費社会に移行した。大都市では高層ビルが建設され、ニューヨークなどは摩天楼と呼ばれる高層都市となった。トーマス・エジソンによって早期に電気が普及したことから、夜間でも明るい街は人間の活動時間を飛躍的に拡大した。グラハム・ベルによって普及した電話は遠く離れた人と直接交流できる手段となり、ビジネスをより効率的に、効果的に発展させることに寄与した。さらに、ラジオ・新聞の発達によるマスメディアの成長によって、市民はリアルタイムで新しい情報を仕入れることが可能となり、成長を常に新しい情報に頼る社会(情報化社会)のさきがけとなった。 1920年代前半は大規模なストライキなどが頻発し、アメリカで最も労働運動が盛んに行われた時代でもある。しかし、賃上げなどを要求することよりも、企業の国有化を求めるものが大半であった。これは共産主義革命に成功したソビエト連邦に影響を受けたものとも取られて、企業活動に影響を与える労働運動を弾圧する動きが司法庁を中心に盛んに行われ、マルキストや共産主義者とされた人々のソ連への追放が行われた。この活動には捜査局BOI(現FBI)長官フーヴァーによる司法支配が背景にある。彼は1924年の就任以降、死までの約50年にわたり長官の座に就き、FBIの権限・能力強化に尽力した反面、自らは冷戦前半にかけて「影の大統領」と呼ばれるほどの強大な権限を手にして、アメリカの数々の内外政策に関与した。 またこのころ、リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功したり、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグなどの野球スターが登場、市民を熱狂させ、大資本によるハリウッド映画が製作された。また大衆市民が手軽に株や土地を売買し、情報網の発達に伴って大都市を中心に流行したが、これは株価や地価を異常に高騰させる理由となった(バブル景気)。しかし、アメリカが人類史上最高の「富」を手にしていることは、世界の誰が見ても真実のようであった。 一方、農村部では大戦中の食料増産によって土地が疲弊し、その後の農業政策に失敗したことから、南部の小農家がさらに没落し、離農して西部を目指すものが多く現れた。大都市が繁栄を謳歌する傍らで、農家は貧しさを味わうと言う、非常に偏った「富」であったことも事実である。 豊かになった大都市では、富を目当てに群がるユダヤ人やカトリックなどの新移民に対して差別感情が蔓延した。アルコール依存症患者が増加したためとの名目で禁酒法が制定されたが、実際は新移民に酒造業を営むものが多かったことへの排斥感情に基づいているとも言える。他にも黒人の反乱が地方都市で頻発したこともあり、クー・クラックス・クラン(KKK)などの人種差別団体が公然と組織され、黒人や新移民を弾圧した。また1920年代には日本人による移民が急増したが、これら日系アメリカ人が社会的に成功する様に危機感を抱いた勢力によって、日本人の脅威を煽る積極的な排日キャンペーンが繰り広げられ、日本製品のボイコットなどが行われた。日系移民の多いカリフォルニア州を中心に排斥運動は高まり、排日移民法が制定されるなど、人種差別が公然と行われる時代であった。日系人排斥運動は隣国カナダへも飛び火した。 アジアでは中国軍民による居留民襲撃に対しイギリス軍と共同して南京市街への砲撃を行うなど断固とした姿勢をとった(南京事件)。 やがてヨーロッパの自力復興によって、アメリカの輸出経済に陰りが生じ、1929年9月の最高値を境に、株価はじわじわと値を下げ始めていた。しかし熱狂した市民はそれに注意することも無く、株や土地の売買を続けた。1929年10月24日のいわゆる「暗黒の木曜日」を境に、遂に株価が一斉に大暴落し、史上最高の繁栄を誇ったアメリカはここに破綻した。アメリカの破綻は「世界の工場アメリカ」に経済依存していたヨーロッパ諸国や日本に波及し、1930年代を取り巻く世界恐慌となった。 資本家は一斉に労働者のリストラをはじめ、大都市は失業者で溢れた。食糧の配給には長蛇の列ができ、浮浪者や犯罪者が増加して社会不安が蔓延した。農家の没落はもはやとどまるところを知らず、彼らが逃れた西部にも、彼らを受け入れる余地はどこにも無かった。そこにかつての繁栄を誇ったアメリカはどこにも存在しなかった。 この社会不安の中、大戦恩給の前払いを求めて退役軍人が首都ワシントンで大規模なデモを起こした。陸軍士官ダグラス・マッカーサーはこれを共産主義者に煽動された暴挙とし、彼らを戦車を主体とする軍事力で弾圧、流血の事態となった。このころ失業者のデモや闘争が相次いでおり、革命が公然と叫ばれるようになっていたが、これらを共産主義者が煽動していることは十分に考えられることであった。どちらにしろ、この後に共産主義者を大量に検挙することに成功し、アメリカでの共産主義運動は沈静化した。 未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。広大な植民地を領有する国々(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦やドイツといった全体主義国家および日本などの権威主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が他の列強諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局のところ外国為替相場の国際的調整は第二次世界大戦後の国際通貨基金設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった。 フランクリン・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心としたニューディール政策によってこの難局を乗り切ろうとするが、経済は一時的に回復したのみで、1930年代後半には再び危機的状況に陥った。
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