国際的な社会学者とは? わかりやすく解説

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国際的な社会学者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 01:19 UTC 版)

建部遯吾」の記事における「国際的な社会学者」の解説

遯吾の活躍は、大学での教育と著術だけにとどまらない明治36年1903年)、研究・教育便宜図って大学文科系初の社会学研究室を設置大正2年1913年)には、京都大学米田庄太郎とともに全国的な学会日本社会学院」を創設して、機関誌日本社会学年報」を発行。遯吾は、自身とは異な自由主義的傾向の強い米田らともよく協力しその主張快く受け入れて社会学普及、向上に貢献したこうした遯吾の業績広く海外にも認められアメリカイタリア社会学士会員大正5年1916年万国社会学学士院正会員に、大正12年1923年)には同副院長選ばれるなど、世界通じる国際的な社会学者としての、揺ぎない地位を得るまでに至ったのである。そして日本社会学建部時代もたらした。 遯吾は、東大社会学講じ学生指導に励む一方各種原稿執筆にも精を出した新潟新聞通じて郷土青年鼓舞激励した静観余録』(明治40年1907年))、日露戦争後軽薄な風潮戒めた詔書わかりやすい解説加えた戊辰詔書衍義』(明治41年1908年))、教育制度調査のため再度訪れた西欧諸国現状記した世界列国大勢』(大正2年1913年))、各国の実情参考日本の教育改善点方法示した教育行政研究』(大正3年1914年))、教育宗教等教化行政についての学説世界先んじて樹立しよう試みた『教政学』(大正10年1921年))、行政簡素化金力政治根絶など現在にも通じ問題挙げて変革を迫る『政治改革』(大正10年1921年))。 「著述学者生命と言い切る遯吾の著作は、このほかにも数多い。遯吾は社会学者として多く論文・著書を残すとともに東京大学講壇終始せず、時論家でもあり、政治家でもあり、また詩人でもあった。

※この「国際的な社会学者」の解説は、「建部遯吾」の解説の一部です。
「国際的な社会学者」を含む「建部遯吾」の記事については、「建部遯吾」の概要を参照ください。

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