国際的な社会学者
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遯吾の活躍は、大学での教育と著術だけにとどまらない。明治36年(1903年)、研究・教育の便宜を図って、大学に文科系初の社会学研究室を設置。大正2年(1913年)には、京都大学の米田庄太郎とともに全国的な学会「日本社会学院」を創設して、機関誌「日本社会学年報」を発行。遯吾は、自身とは異なる自由主義的傾向の強い米田らともよく協力し、その主張を快く受け入れて、社会学の普及、向上に貢献した。 こうした遯吾の業績は広く海外にも認められ、アメリカやイタリアの社会学士院会員や大正5年(1916年)万国社会学学士院正会員に、大正12年(1923年)には同副院長に選ばれるなど、世界に通じる国際的な社会学者としての、揺ぎない地位を得るまでに至ったのである。そして日本社会学に建部時代をもたらした。 遯吾は、東大で社会学を講じ学生の指導に励む一方、各種原稿の執筆にも精を出した。新潟新聞を通じて郷土の青年を鼓舞激励した『静観余録』(明治40年(1907年))、日露戦争後の軽薄な風潮を戒めた詔書にわかりやすい解説を加えた『戊辰詔書衍義』(明治41年(1908年))、教育制度調査のため再度訪れた西欧諸国の現状を記した『世界列国の大勢』(大正2年(1913年))、各国の実情を参考に日本の教育の改善点・方法を示した『教育行政研究』(大正3年(1914年))、教育・宗教等教化行政についての学説を世界に先んじて樹立しようと試みた『教政学』(大正10年(1921年))、行政の簡素化・金力政治の根絶など現在にも通じる問題を挙げて変革を迫る『政治改革』(大正10年(1921年))。 「著述は学者の生命」と言い切る遯吾の著作は、このほかにも数多い。遯吾は社会学者として多くの論文・著書を残すとともに、東京大学の講壇に終始せず、時論家でもあり、政治家でもあり、また詩人でもあった。
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