カトリック解放問題とトーリー党の亀裂
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「ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)」の記事における「カトリック解放問題とトーリー党の亀裂」の解説
しかし1826年頃にはカニングが内閣の主導的地位を確立するようになり、ウェリントン公爵ら保守的な閣僚たちとの亀裂が深まった。とりわけカトリック解放問題をめぐって閣内対立は激しくなった。リヴァプール伯爵はこうした閣内論争に対して中立的立場をとって閣内融和に努めていたが、1827年2月17日に脳卒中で倒れてしまい、3月27日に国王に辞表を提出することを余儀なくされた。 新たに発足したカニング政権ではホイッグ党のランズダウン伯爵が入閣し、自由主義的傾向が強かったがこれはすぐに崩壊し、翌年ウェリントン公爵のトーリー主流派内閣が成立した。しかしこの内閣も自由主義的傾向には抗えず、カトリック解放をすることとなった。これによりトーリー党は完全に分裂、カトリック解放に反対したウルトラトーリーのようなグループはホイッグ党のグレイ伯爵と連立を組み、世論はカトリック解放に反対してるとして、選挙法改正を進め、これが1832年の第一回選挙法改正に繋がった。 1828年12月4日にロンドン・ホワイトホール・ファイフハウス(英語版)で死去した。子供がなかったため、爵位は異母弟のチャールズ(英語版)が継承した。
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