カトリック連合軍の集結と脱落者の続出
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「ナバス・デ・トロサの戦い」の記事における「カトリック連合軍の集結と脱落者の続出」の解説
1199年に死んだマンスールの後を継いだムハンマド・ナースィルは1211年5月、10万を越える大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、6月にセビリアへ到着、カラトラバ騎士団の守るサルバティエラ城を包囲して9月に占領、カトリック諸国の心胆寒からしめた。これには、休戦中にも関わらずカスティーリャが植民を通じてムワッヒド朝の領土を侵略し始めていたこと、および軍事遠征でいくつかの砦を奪ったこと、アラゴンもバレンシア王国方面の砦を攻略したためムスリムがナースィルへ援軍を要請したことが原因とされている。しかしムワッヒド軍はイベリア半島上陸とサルバティエラ城攻略に時間をかけ過ぎたため、一気にトレドへ進軍出来ずセビリアへ引き上げて越冬せざるを得なかった。 ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、アルフォンソ8世は側近ロドリゴをローマへ派遣、教皇インノケンティウス3世の援助を願い勅書を求めた。教皇は期待に応え、フランスへアルフォンソ8世との合流を信者たちに呼びかける書簡を送り、十字軍召集と免償を約束したおかげでフランスは南部で多くの騎士たちが十字軍へ合流していった。また教皇はカトリック諸国間で争うのをやめ、アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。アルフォンソ8世もサンチョ7世、ペドロ2世と同盟を確約した。 カトリック連合軍の構成は次のようであった。アルフォンソ8世の指揮する軍勢はカスティーリャの20の町の軍団の連合であった。メディナ・デル・カンポ、マドリード、ソリア、アルマサン、メディナセリとサン・エステバン・デ・ゴルメスなどの町が含まれていた。ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス2世・デ・アロ(英語版)が旗の持ち手になった。 更に加わったのはサンチョ7世のナバラ軍、ペドロ2世のアラゴン軍、ポルトガル王アフォンソ2世の軍である。ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの、王自身は参戦しなかった。それからテンプル騎士団、サンティアゴ騎士団、カラトラバ騎士団、オスピタル騎士団などの騎士修道会や、フランスの司教に率いられた騎士らが加わった。レオン王アルフォンソ9世はアフォンソ2世と敵対していたために来なかったが、レオン王国の騎士たちは王の名代としてはせ参じた。 1212年の夏にこうしてカトリック連合軍はトレドに集結した。そしてナースィル率いる親征軍と歴史的な決戦をすべく、6月20日にトレドを出発、南方へ向かって進軍した。ムワッヒド軍も22日にハエンへ向けて進軍したが、カトリック連合軍は27日にカラトラバ(英語版)を包囲、7月1日に降伏させた。退去を許された守備隊司令官イブン・カーディスはナースィルの前に出頭したが事情を聞き入れられず処刑、ムワッヒド軍は前進を続けナバス・デ・トロサの平原で野営、カトリック連合軍もナバス・デ・トロサに到着、決戦に備えて休息を取った。 アルフォンソ8世にとってはアラルコスの雪辱を果たす好機でもあったが、教皇至上主義の騎士たちの一部が連合軍から刃こぼれするように脱落していった。キリスト教連合軍の指揮官アルフォンソ8世に従ってついてきただけの義勇兵的な騎士たちには、政治的な了解などの強い動機があったわけではなかった。彼らにとって暑くて不快な慣れない気候は耐えられないものだったのである。このように、カトリック連合軍は必ずしも足並みが揃っているわけではなく、当初6万を超えた兵力は5万程度まで減少した。
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