カトリック連盟の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 10:08 UTC 版)
「カトリック連盟」の記事における「カトリック連盟の終焉」の解説
1631年(第一次)ブライテンフェルトの戦いで、ティリー伯に率いられたカトリック連盟は、スウェーデン軍に敗退する。翌1632年、両者はレヒ川にて会戦し、ティリー伯は負傷(後に死亡)、主導権はカトリック連盟からグスタフ・アドルフが率いるプロテスタント同盟に移った。バイエルン公国の首都であるミュンヘンすら占領され、以降、カトリック連盟は戦争において重要な位置を占めなくなった。 1635年5月30日、内戦を終結させるべく神聖ローマ皇帝フェルディナント2世と帝国内のプロテスタント領邦の大部分との間で 、1629年に発布したプロテスタントの権利を圧迫する「復旧令」(独: Restitutionsedikt)を取り下げて、1627年12月12日に再確認されたアウクスブルクの和議の体制に戻すというプラハ条約が締結された。この条約で、諸侯間の同盟が禁じられたためカトリック連盟も消滅することとなった。 この条約は、諸国間の戦闘行為を終結させただけでなく、君臣信教一致(cuius regio, eius religio)の原則(英語版)又は領邦教会制度(ドイツ語版)が帝国内で確立することにより、宗教が国家間の紛争の原因となることが終焉した。 典拠管理 GND: 4127800-8 LCCN: sh85021217
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