カトリック連盟の結成
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「カトリック連盟」の記事における「カトリック連盟の結成」の解説
1606年4月25日聖マルコの日、バイエルンの帝国自由都市ドナウヴェルトにおいて、五人の僧侶に率いられたカトリックの集団が。隣接するアウゼスハイム(Ausesheim)に向け、旗を掲げ、賛美歌を歌い街を通り抜けようとした。その時、同市の多数派であるルター派の意を受けた評議員が、同市の規約を示しこれを禁じ、旗を降ろし歌うことを禁じて、街を通らせるという事件(十字架と旗の戦い(ドイツ語版) Kreuz-und Fahnengefecht)が発生した。 アウクスブルク司教の抗議を受け、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、以後、カトリック教徒の権利を侵害するのであれば、帝国アハト刑を適用する旨、同市に警告した。しかし、翌年も同様の対立が起こり、聖マルコの祝祭の行列は締め出された。 ルドルフ2世は、同市に対して帝国アハト刑の適用を宣言し、弟であるバイエルン公マクシミリアンに執行を命じた。バイエルン公の軍を前に同市は降伏、帝国法によると、懲戒処分はカトリック教徒のバイエルン公ではなく、同一のクライスに属するヴュルテンベルク公(ルター派)により執行されるべきものであったが、マクシミリアンは、事実上、この帝国自由都市を接収してしまった。 同年、アウクスブルク帝国議会において、議会の多数派を占めるカトリック側は、1552年以降占有された教会領の回復を条件としたアウクスブルクの和議(1555年)の修正案を決議した。この動きに対して、1608年5月14日プロテスタント側の諸侯は、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主としてプロテスタント同盟を結成した。 これに対抗して、マクシミリアン1世はカトリック諸侯に同盟を呼びかけ、翌1609年7月5日、聖職者である選帝侯らはマクシミリアン1世に賛同することを表明し、賛同者を増やしていった。 同月中にアウクスブルク司教領、コンスタンツ司教領、パッサウ司教領、レーゲンスブルク司教領及びヴュルツブルク司教領の代表者がミュンヘンに招集された。一方、反対の意を表していたザルツブルク大司教領には声がかからず、アイヒシュテット司教は参加を躊躇していた。同月10日、『カトリック信仰の防衛と帝国の平和』のための同盟が結成されることが決議され、カトリック連盟が組織された。この同盟の最も重要な規制は、加盟者相互の闘争の禁止であり、紛争解決には闘争に代え、帝国法によるか、法が奏功しない場合は、連盟内の調停により解決するというものであり、それは、ある加盟者が攻撃されたときは、相互に兵を出して援助するか、司法上の支援をするというものであった。マクシミリアン1世が首座となり、アウクスブルク司教、パッサウ司教及びヴュルツブルク司教が顧問となった。 ただし、このミュンヘン議会は連盟の体制作りには失敗している。6月18日、選帝侯であるマインツ大司教、ケルン大司教及びトリーア大司教は、20000名の兵を編成することを提案した。彼らは、マクシミリアン1世を連盟の長とし、8月30日にマインツ大司教を共同首座としたミュンヘン合意に従うことを宣言するという構想をしていた。 体制作りのため、いくつか会議が開催された。翌年2月10日にはオーストリア大司教とザルツブルク大司教をのぞく、主だった司教領の及び数多くの小規模の司教領の代表がヴュルツブルクに、連盟の組織、資金、軍備に関し決定するため集った。これが、カトリック連盟の実質的な開始である。マクシミリアン1世から知らせを受けたローマ教皇、神聖ローマ皇帝及びスペイン国王は、進んで協力することとした。 連盟の問題は準備不足であり、同年4月になっても資金は支払われず、マクシミリアン1世は辞任の危機にあった。これを避けるため、オーストリアに従った役割を期待されているスペインは、マクシミリアン1世の責任を問えるという条件を放棄したし、教皇は更なる援助を約束した。 ユーリヒ=クレーフェ継承戦争とアルザスにおけるプロテスタント同盟の好戦的な態度は、カトリック連盟とプロテスタント同盟間の戦争は不可避な様相を呈してきた。 1613年、レーゲンスブルク帝国議会において、オーストリア大公国が連盟に参加した。こうして、連盟は、マクシミリアン1世、アルブレヒト・オーストリア大公及びオーストリア大公マクシミリアン3世の3人の指導者を迎えることになった。連盟の目的はいまや、『キリスト教社会の合法的防衛』となっていた。オーストリアの参加は、連盟に、皇帝とボヘミア及び低地オーストリアのプロテスタント諸侯との対立をもたらし、それは、三十年戦争の開戦の前哨となった。 オーストリア大公マクシミリアン3世、マインツ大司教及びトリーア大司教が、アウクスブルク司教とエルヴァンゲン修道院長を、バイエルンの幹部に迎えようとするのに抗議したのに対し、マクシミリアン1世はレーゲンスブルクの決議を受け入れることを拒否し、連盟における地位を辞任した。そして、1617年5月27日、バイエルン公国はバンベルク司教領、アイヒシュテット司教領、ヴュルツブルク司教領及びエルヴァンゲン修道院領と別の同盟を組み、その状況が9年間続いた。 1618年末になって、ボヘミアとオーストリアにおける皇帝の地位はだんだん危うくなってきた。支援を求め、皇帝は連盟を再興しようとし、聖職諸侯の会議が何度か行われ、当初の目論見で再興することが決められた。こうして、ライン流域を中心とするマインツ大司教が代表するグループと、バイエルン公に率いられた高地ドイツのグループの二つのグループが連盟内に発生し、これらは、軍組織も財源も異にしていた。マクシミリアン1世が全軍を統括できるのはライン地方で統率を取るときのみであった。 同年、ボヘミア王でもあった神聖ローマ皇帝マティアスの死後、フェルディナント2世がボヘミア王もあわせ跡を継ぎ、1619年8月26日及び27日フリードリヒ5世が国王に就任した。皇帝選挙後、フェルディナント2世はフランクフルトにおいて、聖職諸侯に対して支援を持ちかけた。 こうして、ようやく、歩兵21,000人、騎兵4,000人による軍団が構成された。このうち、7,000人は、ヴュルツブルクからの支援を得たバイエルン公国からの軍団であり最大勢力であった。指揮官には、ブラバント公の一族であるティリー伯ヨハン・セルクラエスが就いた。 1620年7月3日カトリック連盟の30,000人の軍勢を前に、10,000人ほどの兵力であったプロテスタント同盟は、オーストリア・ボヘミアにおける停戦に合意した。
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