カトリック連盟の結成とは? わかりやすく解説

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カトリック連盟の結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 10:08 UTC 版)

カトリック連盟」の記事における「カトリック連盟の結成」の解説

1606年4月25日マルコの日、バイエルン帝国自由都市ドナウヴェルトにおいて、五人僧侶率いられカトリック集団が。隣接するアウゼスハイム(Ausesheim)に向け、旗を掲げ賛美歌歌い街を通り抜けようとした。その時、同市の多数派であるルター派意を受けた評議員が、同市の規約示しこれを禁じ、旗を降ろし歌うことを禁じて、街を通らせるという事件(十字架と旗の戦いドイツ語版) Kreuz-und Fahnengefecht)が発生したアウクスブルク司教抗議を受け、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、以後カトリック教徒権利侵害するであれば帝国アハト刑適用する旨、同市に警告した。しかし、翌年同様の対立起こり、聖マルコ祝祭行列締め出された。 ルドルフ2世は、同市に対して帝国アハト刑適用宣言し、弟であるバイエルン公マクシミリアン執行命じたバイエルン公の軍を前に同市は降伏帝国法によると、懲戒処分カトリック教徒バイエルン公ではなく同一クライス属すヴュルテンベルク公ルター派)により執行されるべきものであったが、マクシミリアンは、事実上、この帝国自由都市接収してしまった。 同年アウクスブルク帝国議会において、議会多数派占めカトリック側は、1552年以降占有され教会領の回復条件としたアウクスブルクの和議1555年)の修正案決議した。この動きに対して1608年5月14日プロテスタント側の諸侯は、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世盟主としてプロテスタント同盟結成した。 これに対抗してマクシミリアン1世カトリック諸侯同盟呼びかけ、翌1609年7月5日聖職者である選帝侯らはマクシミリアン1世賛同することを表明し賛同者増やしていった。 同月中にアウクスブルク司教領コンスタンツ司教領パッサウ司教領レーゲンスブルク司教領及びヴュルツブルク司教領代表者ミュンヘン招集された。一方反対の意を表していたザルツブルク大司教領には声がかからずアイヒシュテット司教参加躊躇していた。同月10日、『カトリック信仰防衛帝国の平和』のための同盟結成されることが決議されカトリック連盟組織された。この同盟の最も重要な規制は、加盟相互闘争禁止であり、紛争解決には闘争代え帝国法によるか、法が奏功ない場合は、連盟内の調停により解決するというものであり、それは、ある加盟者が攻撃されたときは、相互に兵を出して援助するか、司法上の支援をするというものであったマクシミリアン1世首座となり、アウクスブルク司教パッサウ司教及びヴュルツブルク司教顧問となった。 ただし、このミュンヘン議会連盟体制作りには失敗している。6月18日選帝侯であるマインツ大司教ケルン大司教及びトリーア大司教は、20000名の兵を編成することを提案した。彼らは、マクシミリアン1世連盟の長とし、8月30日マインツ大司教共同首座としたミュンヘン合意に従うことを宣言するという構想をしていた。 体制作りのため、いくつか会議開催された。翌年2月10日にはオーストリア大司教ザルツブルク大司教をのぞく、主だった司教領の及び数多く小規模司教領の代表がヴュルツブルクに、連盟組織資金軍備関し決定するため集った。これが、カトリック連盟実質的な開始である。マクシミリアン1世から知らせ受けたローマ教皇神聖ローマ皇帝及びスペイン国王は、進んで協力することとした。 連盟問題準備不足であり、同年4月になって資金支払われず、マクシミリアン1世辞任危機にあった。これを避けるため、オーストリア従った役割期待されているスペインは、マクシミリアン1世責任問えるという条件放棄したし、教皇更なる援助約束したユーリヒ=クレーフェ継承戦争アルザスにおけるプロテスタント同盟好戦的な態度は、カトリック連盟プロテスタント同盟間の戦争不可避な様相呈してきた。 1613年レーゲンスブルク帝国議会において、オーストリア大公国連盟参加した。こうして、連盟は、マクシミリアン1世、アルブレヒト・オーストリア大公及びオーストリア大公マクシミリアン3世の3人の指導者迎えることになった連盟目的はいまや、『キリスト教社会合法的防衛となっていた。オーストリア参加は、連盟に、皇帝ボヘミア及び低地オーストリアプロテスタント諸侯との対立もたらし、それは、三十年戦争開戦前哨となったオーストリア大公マクシミリアン3世マインツ大司教及びトリーア大司教が、アウクスブルク司教エルヴァンゲン修道院長を、バイエルン幹部迎えようとするのに抗議したのに対しマクシミリアン1世レーゲンスブルク決議受け入れることを拒否し連盟における地位辞任した。そして、1617年5月27日バイエルン公国バンベルク司教領アイヒシュテット司教領ヴュルツブルク司教領及びエルヴァンゲン修道院領と別の同盟組み、その状況9年続いた1618年になってボヘミアオーストリアにおける皇帝地位はだんだん危うくなってきた。支援求め皇帝連盟再興しようとし、聖職諸侯会議何度か行われ、当初目論見再興することが決められた。こうして、ライン流域中心とするマインツ大司教代表するグループと、バイエルン公率いられ高地ドイツグループ二つグループ連盟内に発生し、これらは、軍組織財源異にしていた。マクシミリアン1世全軍統括できるのはライン地方統率を取るときのみであった同年ボヘミア王でもあった神聖ローマ皇帝マティアス死後フェルディナント2世ボヘミア王もあわせ跡を継ぎ1619年8月26日及び27日フリードリヒ5世国王就任した皇帝選挙後、フェルディナント2世フランクフルトにおいて、聖職諸侯に対して支援持ちかけた。 こうして、ようやく、歩兵21,000人、騎兵4,000人による軍団構成された。このうち、7,000人は、ヴュルツブルクからの支援得たバイエルン公国からの軍団であり最大勢力であった指揮官には、ブラバント公一族であるティリー伯ヨハン・セルクラエス就いた1620年7月3日カトリック連盟30,000人の軍勢前に10,000人ほどの兵力であったプロテスタント同盟は、オーストリア・ボヘミアにおける停戦合意した

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