皇帝選挙とは? わかりやすく解説

皇帝選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 14:35 UTC 版)

リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事における「皇帝選挙」の解説

カルロス1世1515年頃) フランソワ1世1515年頃) フリードリヒ3世1508年頃) ヘンリー8世1509年頃)) 1518年行われたレーゲンスブルクでの帝国議会での議論中心は、オスマン・トルコ脅威に対してドイツ諸侯一致団結できるかどうかだった。しかし実際のところは、ハプスブルク家マクシミリアン1世イタリア戦争フランスフランソワ1世衝突していることが問題だった。マクシミリアン1世時代神聖ローマ帝国フランスの関係は極めて悪化しており、そのうえマクシミリアン1世高齢で、死期迫っているのは明白であり、まもなく新し皇帝生まれるはずだった。 もともと所領フランス近くパリ学んだことがあるリヒャルトは、フランソワ1世とは深い交流があった。リヒャルト考えでは、いっそフランソワ1世神聖ローマ帝国皇帝になってしまえばフランス神聖ローマ帝国対立消え失せるし、フランストルコ手を組むことも無くなるし、ヨーロッパ団結して異教徒立ち向かうことが実現できる。そのため1519年1月マクシミリアン1世死去し次の皇帝決め選挙が始まると、リヒャルトフランス王フランソワ1世次期皇帝推し、各諸侯根回し始めた。 この皇帝選挙では、候補者は4人いた。イングランド王ヘンリー8世フランス王フランソワ1世スペイン王カルロス1世ザクセン選帝侯フリードリヒ3世である。このうちヘンリー8世早々脱落し教皇レオ10世推すザクセン選帝侯高齢理由辞退フランソワ1世カルロス1世一騎打ちとなった両者は7人の選帝侯対す買収合戦繰り広げた。これを制したのはフッガー家から借りた金をばらまいたカルロス1世である。このときカルロス1世諸侯支払った金貨総合計85万枚あまりで、そのうち41,000トリーア大司教であるリヒャルトの懐に入ったカルロス1世神聖ローマ皇帝カール5世として即位した戴冠式アーヘン大聖堂1520年10月23日行われリヒャルトトリーア大司教としてカール5世油を注ぐ儀式行った

※この「皇帝選挙」の解説は、「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の解説の一部です。
「皇帝選挙」を含む「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事については、「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の概要を参照ください。

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