皇帝近衛隊の突撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:05 UTC 版)
「ワーテルローの戦い」の記事における「皇帝近衛隊の突撃」の解説
古参近衛隊に英蘭連合軍への攻撃準備を命じるナポレオン。William M. Sloane画、1895年。 戦闘の最終局面でフランス兵を攻撃するイギリス軍第10軽騎兵連隊。Wolfgang Sauber画。 この一方、ラ・エー・サントが陥ちたことで英蘭軍中央部がむき出しになり、プランスノワの戦線は一時的に小康を得た。ナポレオンはこれまで無敵を誇ってきた皇帝近衛隊の投入を決めた。19時30分に決行されたこの攻撃は英蘭軍の中央を突破してその戦線をプロイセン軍から引き離すことにあった。この突撃は軍事史上名高い出来事の一つではあるが、具体的にどの部隊が参加したのかは不明確である。この攻撃は古参近衛隊の擲弾兵や猟歩兵ではなく、中堅近衛隊5個大隊によって行われたと見られる。古参近衛隊3個大隊は前進し、攻撃の第二陣を構成したものの、彼らは予備のまま留め置かれ英蘭軍に対する攻撃には直接加わっていない。 ……私は皇帝によって指揮される近衛隊の4個連隊の到着を目にした。これらの部隊をもって、皇帝は攻撃を再開し、敵軍中央部を突破することを望んだ。皇帝は私に彼らを率いるよう命じ、将軍、将校そして兵士たちはみな、非の打ちどころのない豪胆さを示して見せた。だが、この一群の兵士たちは、敵に対して長きに渡って抵抗するには弱すぎた。そして、この攻撃が(ほんの僅かな間ではあったが)奮い立たせた希望をすぐに捨てざる得なくなった。 — ネイ元帥、 ぶどう弾による砲撃や散兵からの銃撃を受けつつ、およそ3,000の中堅近衛兵はラ・エー・サントの西側にまで前進し、攻撃のために三方向に別たれた。2個中堅近衛擲弾兵大隊からなる集団はイギリス、ブラウンシュヴァイクそしてナッサウ兵からなる第一線を突破し、比較的損害の少ないシャッセ(英語版)将軍のオランダ=ベルギー軍第3師団が彼らに対するべく差し向けられ、英蘭軍の砲兵が勝ち誇る中堅近衛擲弾兵の側面を攻撃した。これでもなお中堅近衛隊の前進を止められなかったために、シャッセは自らの第1旅団に数に劣る中堅近衛隊に対する突撃を命じ、中堅近衛隊はひるみそして粉砕された。 西側ではメイトランド(英語版)少将のイギリス軍第1近衛旅団1500人がフランス軍の砲撃から身を守るために伏せていた。フランス軍第二波である2個中堅近衛猟歩兵大隊が接近するとメイトランドの近衛歩兵は立ち上がり、猛烈な一斉射撃を浴びせた。中堅近衛隊の猟歩兵はこれに応戦すべく展開したが、浮き足立ち始めた。イギリス軍近衛歩兵隊による銃剣突撃がこれを打ち破った。無傷の近衛猟歩兵大隊からなる第三波が支援のために駆けつけた。イギリス軍近衛兵は後退し、フランス軍の中堅近衛猟歩兵がこれを追うが、ジョン・コルボーン(英語版)中佐率いる第52軽歩兵連隊(英語版)が彼らの側面に回りこみ強烈的な射撃を浴びせかけ、突撃した。この猛攻により、フランス軍第三波も撃破された。 最後の皇帝近衛隊が一目散に退却すると、フランス軍の前線に仰天すべき知らせが駆け巡り、パニックが巻き起こった。「近衛隊が退却した。我が身を守れ!」( "La Garde recule. Sauve qui peut!" )。一方、愛馬のコペンハーゲン号に跨ったウェリントンは帽子を頭上に振って総進撃を命じ、「始めたからにはやり通せ」("In for a penny, in for a pound")と言った。陣地から飛び出した彼の軍隊は、退却するフランス軍に襲いかかった。 生き残った皇帝近衛隊の兵士たちは最後の抵抗の場所 (英語版) とすべく予備としてラ・エー・サント南側に後置されていた3個大隊(いくつかの史料は4個としている)のもとに集まった。アダム(英語版)少将の第3旅団とハノーファー軍後備兵連隊オスナブリュック大隊に加えてヴァンドルー少将とヴィヴィアン少将の比較的傷が浅い騎兵旅団が右側から突撃し、皇帝近衛隊を混乱に陥れた。ある程度統率を保っていた左側の皇帝近衛隊はラ・ベル・アリアンスの方向へ退却した。この退却のさなか、皇帝近衛隊の一部が降伏を勧告され、有名な返答をしている。皇帝近衛隊の指揮官は「近衛兵は死ぬ。降伏などしない!」("La Garde meurt, elle ne se rend pas!")またはただ一言「くそったれ!」("Merde!")と叫んだという。
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