自由主義派の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 06:12 UTC 版)
「フェルナンド7世治世下のスペイン」の記事における「自由主義派の没落」の解説
自由主義派は左右両翼との政治的対立に直面した。一方は王党派で、国王自身の指導の下に体制が整えられ、政府の施策で痛手を受けた教会の支援を得た。もう一方は自由主義派のうち"exaltados"(「有頂天の人々」の意)と呼ばれる急進派で、出版物の多くを駆使して王政の廃止を主張したことから、自由主義派はこの一派ともにらみ合う羽目となった。 このような状況に加え、1822年のコルテスの選挙でリエゴが勝利したこと、各国の国内秩序を乱す民主主義運動がヨーロッパを動揺させていたことから、フェルナンド7世は、ウィーン会議の命題に基づき、ロシア、プロイセン、オーストリア、フランスなど各国の君主間で結ばれていた神聖同盟に参加して絶対王政の再建を図った。 1822年、神聖同盟は、すでにナポリとピエモンテへの干渉(トロッパウ会議(英語版)とライバッハ会議(英語版)の決議に基づくカルボナリ弾圧)を決行していたように、スペインにも干渉することを決定した(ヴェローナ会議(英語版))。1823年1月22日にはフェルナンド7世を絶対君主として復権させるためにフランスがスペインに出兵することを許可する密約が結ばれた。
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