アメリカ・スペイン関係の悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 06:11 UTC 版)
「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」の記事における「アメリカ・スペイン関係の悪化」の解説
スペイン領キューバはアメリカのフロリダ半島沖という至近に存在し、砂糖の輸出によってアメリカへの経済依存度が高かった。アメリカ側も海上輸送や精製などの砂糖産業の他、タバコ、コーヒー、鉱山などキューバへの直接投資や工業製品の輸出で利害関係を深めていた。1894年にアメリカでウィルソン・ゴーマン関税法が成立すると無税であった砂糖に40%の関税が課せられることになり、キューバでは輸出が激減して経済不安が深刻となり、砂糖業者からは関税を避けるためにアメリカへの併合を求める声も上がった。この不況に乗じてキューバでは武装蜂起を含む植民地支配からの独立運動が活発化し、運動が全島に広がるとともに、アメリカ本土へも積極的に独立の大義と支援がアピールされた。 スペインでは、国王アルフォンソ13世はまだ少年であり、王太后のマリア・クリスティチーナが摂政となっていた。首相のアントーニオ・カノバス・デル・カスチリョ(保守党党首、後に暗殺に遭う)は強硬政策を採り、キューバ派遣軍は約16万人に上った。穏健派のキューバ総督マルチネス・カンポス元帥は罷免され、代わって1896年1月に派遣されたキューバ総督のウィレル将軍は強制収容を行うなど独立運動を弾圧した。アメリカのハバナ領事フィッツヒュー・リーは現地では年内に全人口の約1⁄4にあたる40万人が死亡すると信じられていることを報告しており、実際には約10万人が死亡したとされる。キューバの惨状を伝えるイエロー・ジャーナリズムはアメリカの世論を煽り、キューバ救援の圧力によってウィリアム・マッキンリー大統領が仲介に乗り出した。 スペインでは政変が起き、強硬派が更迭され、摂政クリスティーナの意向によって比較的自由主義的傾向のあったプラセデス・サガスタが首相に就任して内閣を組織し、キューバ総督もラモン・ブランコ・イ・エレーナス中将が登用され、アメリカへの融和策が取られた。
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