抗日パルチザン活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:14 UTC 版)
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円で、金日成が一人突出していたわけではない。 また、この普天堡襲撃は在満韓人祖国光復会甲山支部(後の朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている。 その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後、抗日聯軍は1940年3月11日に安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。苦力およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満州人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満州警察・前田隊の追うところとなったが、逆に前田隊を待ち伏せして襲撃した。この襲撃による前田隊の損害は140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。このとき、前田隊の隊員はそのほとんどが練度の低い朝鮮人によって構成されていたため、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた。 このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。 重村智計は、普天堡の戦いは北朝鮮が喧伝しているよりもっと小規模であり、東北抗日聯軍も中国抗日軍との連合軍であったことを指摘している。
※この「抗日パルチザン活動」の解説は、「金日成」の解説の一部です。
「抗日パルチザン活動」を含む「金日成」の記事については、「金日成」の概要を参照ください。
- 抗日パルチザン活動のページへのリンク