「金日成偽者説」の起源
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「普天堡の戦い」の記事における「「金日成偽者説」の起源」の解説
1937年11月18日の京城日報の記事には普天堡を襲撃した金日成(金成柱36歳)が満州国軍討伐隊に射殺されたとの記事がある。また満州国軍の機関誌である月刊『鉄心』にも「金日成匪賊討伐詳報」としてこの時の詳細な記録がある。普天堡事件で面の住民らによって目撃された金日成は40歳前後と報告されている。 また、普天堡襲撃の共犯者とされる朴金喆・朴達(のちの朝鮮労働党甲山派領袖と重鎮)らは後に逮捕された際、金日成は普天堡襲撃当時36歳だ、と供述した。これらの矛盾や聴き取り調査から、普天堡を襲撃した金日成は、後に朝鮮民主主義人民共和国主席となる金日成(当時25歳)と同一人物ではないと疑う説が唱えられた(李命英、朴甲東など)。 その後、東北抗日聯軍を指導する中国共産党側の人物による証言・その他の中国語史料が公開され、普天堡を襲撃した金日成とソ連領内に退避(一時帰国)した金日成(金成柱)は同一ではないとされている。しかし、抗日運動家に関する記述に齟齬があるのは珍しいことではないこと、情報撹乱目的またはゲリラ相互で情報が遮断されている為に逮捕されたゲリラが誤った供述をすることも珍しくないこと、最終的に取調べと裁判が事件の全容を明らかにする過程で朝鮮総督府が他の情報・供述を退けて「本名金成柱当二十九年」と確定していることなどから、少なくとも普天堡襲撃時点での金日成と後の金日成は同一人物で間違いないと和田春樹(徐大粛、金日成#抗日パルチザン活動および金日成#注釈参照)などは主張している。
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