抗日意識の高まりとは? わかりやすく解説

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抗日意識の高まり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:24 UTC 版)

冀察政務委員会」の記事における「抗日意識の高まり」の解説

冀東政権つづいて冀察政務委員会設立動き具体化すると、華北分離危機感が拡がった。まず起ちあがったのは北平学生たちである。12月9日酷寒の中を五千人の学生が、「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」「全国武装して華北守れ」などのスローガン叫びながらデモ行進した(一二・九運動)。デモ隊中心奉天追われ北平移転していた東北大学学生たちであった事前に学生行動察知した宋哲元は、警察軍隊大量に動員し放水棍棒大刀銃剣阻止し多数負傷者逮捕者出した。しかし学生たちは屈しなかった。さらに12月16日冀察政務委員会成立予定日に、ふたたび一万余の学生デモ行進行ない軍隊・警察激し衝突くりかえしながら市民数万人が参加する民衆大会開き、「冀察政務委員会承認しない」「華北いかなる傀儡組織にも反対する」「東北失地回復せよ」などの決議案採択した政務委員会成立大会十八日に延期されひそやかな形で行なわざるをえなくなった当局厳し取締りの中で敢行された。この学生たちの運動は、全国波紋を拡げ、 蔣介石の「学生運動禁止令」(1936年1月)を無視して全国主要都市学生集会デモ挙行された。学生たちは救国宣伝団を組織して農村入り農民たちに亡国危機抗日の道を説いたこうした運動基盤にして、五月に全国学生救国連合会上海結成されおりから日本支那駐屯軍大増強(1800人から5800人に)に反対する運動全国拡大していった。学生たちの運動はさらに広範な階層へと拡がっていった一二・九の直後上海沈鈞儒鄒韜奮らの「上海文化救国会」が、また「上海婦女界救国連合会」がつくられ1936年5月には、全国同様な組織六十余を結集した全国各界救国連合会」が誕生して、「内戦停止一致抗日」を要求した。これに対して国民党政府は、1936年2月治安維持緊急治罪法」を発布し抗日運動厳しく抑圧し11月には全国各界連合会指導者沈鈞儒鄒韜奮章乃器七人を「民国危害加えた」との罪名逮捕したいわゆる抗日七君子事件」である。しかしこのような弾圧は、運動に一層拍車をかける結果となり、抗日救国の声は全国みなぎった

※この「抗日意識の高まり」の解説は、「冀察政務委員会」の解説の一部です。
「抗日意識の高まり」を含む「冀察政務委員会」の記事については、「冀察政務委員会」の概要を参照ください。

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