七君子事件とは? わかりやすく解説

七君子事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 09:25 UTC 版)

鄒韜奮」の記事における「七君子事件」の解説

その直前同年5月に、鄒韜奮全国各界救国聯合執行委員選出される7月には、章乃器沈鈞儒陶行知と4人で「団結御侮に関する幾つかの条件最低限要求」(原文團結御悔的幾個基本條件和最低要求」)を発表し国民党中国共産党双方向けて、自らの政治姿勢改め共同抗日に向かうよう呼びかけた。 しかし同年11月22日鄒韜奮章乃器沈鈞儒加え王造時・沙千里・史良は国民党により逮捕され蘇州江蘇高等法院看守所に収監された。いわゆる「七君子事件」である。この逮捕には世論激しく反発したが、蒋介石らはあくまでも裁判により判決を下そうと目論んだ。しかし盧溝橋事件による日中戦争抗日戦争勃発経た1937年民国26年7月31日に、ついに世論非難抗し切れなくなった国民党により、7人は釈放されている。 釈放され鄒韜奮上海新たに抗戦三日刊を創刊し抗日団結社会呼びかける一方共産党支持し国民党非難する言論展開した上海陥落後も武漢移って刊行継続し1938年民国27年7月には湜が主編を務めていた『全民周刊』と合併して『全民抗戦三日刊を創刊している。また、鄒は国民参政第1期参政員にも選出されている。

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七君子事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 01:28 UTC 版)

章乃器」の記事における「七君子事件」の解説

満州事変九・一八事変勃発後から、章乃器抗日主張展開し、さらに蔣介石の「攘外安内政策」を激しく批判していた。1934年民国23年4月、章は宋慶齢何香凝らと「中国人対日作戦基本綱領」を発表し中華民族武装自衛委員会共同発起している。翌年12月には、沈鈞儒鄒韜奮陶行知らと上海で「上海文化救国運動宣言」を発表し上海文化救国会を組織した1936年民国25年1月上海各界救国聯合会が結成されると、章は常務委員となる。 同年7月には、章乃器沈鈞儒鄒韜奮陶行知の4人で「団結御侮に関する幾つかの条件最低限要求」(原文團結御悔的幾個基本條件和最低要求」)を発表し国民党中国共産党双方向けて、自らの政治姿勢改め共同抗日に向かうよう呼びかけた。共産党毛沢東はこれに肯定的な評価表明したが、国民党蔣介石はむしろ強硬な弾圧を図るようになる。ついに同年11月23日、章・沈・鄒に加え王造時・沙千里・史良は国民党により逮捕され蘇州江蘇高等法院看守所に収監された。いわゆる「七君子事件」である。この逮捕には世論激しく反発したが、蔣らはあくまでも裁判により判決を下そうと目論んだ。しかし盧溝橋事件による日中戦争抗日戦争勃発経た1937年民国26年7月31日に、ついに世論非難抗し切れなくなった国民党により、7人は釈放されている。

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