七君子事件
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その直前の同年5月に、鄒韜奮は全国各界救国聯合会執行委員に選出される。7月には、章乃器・沈鈞儒・陶行知と4人で「団結御侮に関する幾つかの条件と最低限の要求」(原文「團結御悔的幾個基本條件和最低要求」)を発表し、国民党と中国共産党の双方に向けて、自らの政治姿勢を改め共同で抗日に向かうよう呼びかけた。 しかし同年11月22日、鄒韜奮・章乃器・沈鈞儒に加え、李公樸・王造時・沙千里・史良は国民党により逮捕され、蘇州の江蘇高等法院看守所に収監された。いわゆる「七君子事件」である。この逮捕には世論が激しく反発したが、蒋介石らはあくまでも裁判により判決を下そうと目論んだ。しかし盧溝橋事件による日中戦争(抗日戦争)勃発を経た1937年(民国26年)7月31日に、ついに世論の非難に抗し切れなくなった国民党により、7人は釈放されている。 釈放された鄒韜奮は上海で新たに『抗戦』三日刊を創刊し、抗日団結を社会に呼びかける一方、共産党を支持し、国民党を非難する言論を展開した。上海陥落後も武漢に移って刊行を継続し、1938年(民国27年)7月には柳湜が主編を務めていた『全民周刊』と合併して『全民抗戦』三日刊を創刊している。また、鄒は国民参政会第1期参政員にも選出されている。
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七君子事件
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満州事変(九・一八事変)勃発後から、章乃器は抗日の主張を展開し、さらに蔣介石の「攘外安内政策」を激しく批判していた。1934年(民国23年)4月、章は宋慶齢・何香凝らと「中国人民対日作戦基本綱領」を発表し、中華民族武装自衛委員会を共同で発起している。翌年12月には、沈鈞儒・鄒韜奮・陶行知らと上海で「上海文化界救国運動宣言」を発表し、上海文化救国会を組織した。1936年(民国25年)1月、上海各界救国聯合会が結成されると、章は常務委員となる。 同年7月には、章乃器・沈鈞儒・鄒韜奮・陶行知の4人で「団結御侮に関する幾つかの条件と最低限の要求」(原文「團結御悔的幾個基本條件和最低要求」)を発表し、国民党と中国共産党の双方に向けて、自らの政治姿勢を改め共同で抗日に向かうよう呼びかけた。共産党・毛沢東はこれに肯定的な評価を表明したが、国民党・蔣介石はむしろ強硬な弾圧を図るようになる。ついに同年11月23日、章・沈・鄒に加え、李公樸・王造時・沙千里・史良は国民党により逮捕され、蘇州の江蘇高等法院看守所に収監された。いわゆる「七君子事件」である。この逮捕には世論が激しく反発したが、蔣らはあくまでも裁判により判決を下そうと目論んだ。しかし盧溝橋事件による日中戦争(抗日戦争)勃発を経た1937年(民国26年)7月31日に、ついに世論の非難に抗し切れなくなった国民党により、7人は釈放されている。
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