七口の由来とは? わかりやすく解説

七口の由来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:28 UTC 版)

京の七口」の記事における「七口の由来」の解説

京の出入口を表す言葉としての「口」は、鎌倉時代後半から使われていたようであるが、室町時代になるとその出入口始めとして、幕府寺社朝廷公家)などさまざまな主体が、「七口の関」と称される関(関所)を設け関銭通行料)を徴収するようになったため、記録に関として「口」がみられるうになる。その記録を見ると、幕府朝廷設置した関の数を7つとするものが見られる例えば、『建内記』によると、室町時代半ば永享13年/嘉吉元年1441年)に朝廷御厨子所みずしどころ)の率分関八瀬今道下・東寺口法性寺鳥羽七条口・長坂口の7か所に設置したうえで代官置いたとある。ただし、各主体の関が同じ場所に設置されたわけでなく、場所はまちまちである。また、時期によって関の数は異なっており、例え内蔵寮による率分関については、建武の新政初年元弘3年/正慶2年1333年)には長坂口・粟田口大原口四宮河原関が設けられていたが、応仁の乱以降増加して木幡口・坂本口・鞍馬口西口嵯峨口)・南口・淀口・摂津芥川納所関・辰巳口が挙げられている。 時代が下がり江戸時代に入ると、京の出入口を表す言葉として、「七口」という表現一般的に使われるうになる豊臣秀吉京都改造一環として、京の周囲を囲む惣構である御土居築き、京の出入口土塁開いた「口」として具現化したことが七口」という表現一般的なものとする大きな役割果たした考えられる。そのため、秀吉御土居建造当時穿った出入口7つであったともいわれるが、建造当時出入口は『三藐院記』によると十口とあり、また、現在では京の七口として数えられていない部分にも出入口があったことが当時史料から読みとれるとの指摘がある。[要出典]そこで、「七」は数を示すのではなく古代日本の行政区画概念である「五畿七道」の中心にあり、その「七道」すなわち地方諸国つながっていることを表すというのがルーツであるとする説が有力である。

※この「七口の由来」の解説は、「京の七口」の解説の一部です。
「七口の由来」を含む「京の七口」の記事については、「京の七口」の概要を参照ください。

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