抗日運動の展開とは? わかりやすく解説

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抗日運動の展開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 00:14 UTC 版)

沈鈞儒」の記事における「抗日運動の展開」の解説

1924年民国13年)、中国国民党改組され、孫文国共合作三大政策打ち出すと、沈鈞儒はこれに支持表明している。1926年民国15年7月国民党北伐支援するために、沈と褚輔成らは浙皖三省聯合自治会結成し北京政府派・直隷派孫伝芳への反対運動展開した北伐軍浙江攻略すると、沈は浙江省政府政務委員秘書長に任ぜられる。しかし、翌1927年民国16年)に上海クーデター勃発すると、それまで国共合作支持姿勢疑われ、沈は国民党当局逮捕されてしまう。まもなく釈放されたが、以後政界活動せず上海法科大学(後に上海法学院改名教務長や弁護士務めた1931年民国20年)に満州事変勃発すると、沈鈞儒はこれに反発し抗日運動展開するうになる1933年民国22年)、宋慶齢蔡元培魯迅らが結成した中国民権保障同盟に沈も加入した1935年民国24年12月には、鄒韜奮章乃器陶行知馬相伯馬良)らと「上海文化救国運動宣言」を発表し上海文化救国会を組織している。翌年1月には上海各界救国聯合会が、そして5月には全国各界救国聯合会が成立し、沈は執行委員常務委員務めた同年7月には、沈鈞儒章乃器鄒韜奮陶行知の4人で「団結御侮に関する幾つかの基本条件最低限要求」(原文團結御悔的幾個基本條件和最低要求」)を発表し国民党中国共産党双方向けて、自らの政治姿勢改め共同抗日に向かうよう呼びかけた。共産党毛沢東はこれに肯定的な評価表明したが、国民党蔣介石はむしろ強硬な弾圧を図るようになる。ついに同年11月23日、沈・章・鄒に加え王造時・沙千里・史良は国民党により逮捕され蘇州江蘇高等法院看守所に収監された。いわゆる七君子事件」である。この逮捕には世論激しく反発したが、蔣らはあくまでも裁判により判決を下そうと目論んだ。しかし盧溝橋事件による日中戦争勃発経た1937年民国26年7月31日に、ついに世論非難抗し切れなくなった国民党により、7人は釈放されている。 釈放後の沈鈞儒は、さらに抗日運動展開していく。同年12月漢口抗敵救亡総会結成し、その主席となったまた、機関紙『全民周刊』を創刊し翌年1938年民国26年7月には鄒韜奮刊行していた『抗戦三日刊』と合併して、『全民抗戦三日刊』を刊行したまた、鄒韜奮陶行知とともに国民参政参政となっている。

※この「抗日運動の展開」の解説は、「沈鈞儒」の解説の一部です。
「抗日運動の展開」を含む「沈鈞儒」の記事については、「沈鈞儒」の概要を参照ください。

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