抗日運動の展開
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1924年(民国13年)、中国国民党が改組され、孫文が国共合作と三大政策を打ち出すと、沈鈞儒はこれに支持を表明している。1926年(民国15年)7月、国民党の北伐を支援するために、沈と褚輔成らは蘇浙皖三省聯合自治会を結成し、北京政府派・直隷派の孫伝芳への反対運動を展開した。北伐軍が浙江を攻略すると、沈は浙江省政府政務委員兼秘書長に任ぜられる。しかし、翌1927年(民国16年)に上海クーデターが勃発すると、それまでの国共合作支持姿勢を疑われ、沈は国民党当局に逮捕されてしまう。まもなく釈放されたが、以後は政界で活動せず、上海法科大学(後に上海法学院に改名)教務長や弁護士を務めた。 1931年(民国20年)に満州事変が勃発すると、沈鈞儒はこれに反発し、抗日運動を展開するようになる。1933年(民国22年)、宋慶齢、蔡元培、魯迅らが結成した中国民権保障同盟に沈も加入した。1935年(民国24年)12月には、鄒韜奮・章乃器・陶行知・馬相伯(馬良)らと「上海文化界救国運動宣言」を発表し、上海文化救国会を組織している。翌年1月には上海各界救国聯合会が、そして5月には全国各界救国聯合会が成立し、沈は執行委員兼常務委員を務めた。 同年7月には、沈鈞儒・章乃器・鄒韜奮・陶行知の4人で「団結御侮に関する幾つかの基本条件と最低限の要求」(原文「團結御悔的幾個基本條件和最低要求」)を発表し、国民党と中国共産党の双方に向けて、自らの政治姿勢を改め共同で抗日に向かうよう呼びかけた。共産党・毛沢東はこれに肯定的な評価を表明したが、国民党・蔣介石はむしろ強硬な弾圧を図るようになる。ついに同年11月23日、沈・章・鄒に加え、李公樸・王造時・沙千里・史良は国民党により逮捕され、蘇州の江蘇高等法院看守所に収監された。いわゆる「七君子事件」である。この逮捕には世論が激しく反発したが、蔣らはあくまでも裁判により判決を下そうと目論んだ。しかし盧溝橋事件による日中戦争勃発を経た1937年(民国26年)7月31日に、ついに世論の非難に抗し切れなくなった国民党により、7人は釈放されている。 釈放後の沈鈞儒は、さらに抗日運動を展開していく。同年12月、漢口で抗敵救亡総会を結成し、その主席となった。また、機関紙『全民周刊』を創刊し、翌年1938年(民国26年)7月には鄒韜奮が刊行していた『抗戦三日刊』と合併して、『全民抗戦三日刊』を刊行した。また、鄒韜奮・陶行知らとともに国民参政会参政員となっている。
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