抗明闘争と滅亡への道
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簡定帝は反明勢力を結集して明に抵抗したが、明軍の圧倒的兵力・物量などもあって苦戦した。1408年初め、乂安(現在のゲアン省)に向けて進軍し、これに化州(中国語版)(ホアチャウ、現在のトゥアティエン・フエ省)の鄧悉(中国語版)と、以前に升華(中国語版)(タンホア、現在のクアンナム省)の官吏であった阮景真(中国語版)が呼応した。12月に大越軍は逋姑(ポーコー、現在のナムディン省イーイエン県イエンバン社(ベトナム語版))の船着場で鄧悉や阮景真らの奮戦もあって4万の明軍を撃退したとされる(逋姑の戦い(ベトナム語版))。以来、簡定帝たちの名声は安南中に広がり、多くの人間が大越軍に投じた。 しかし、逋姑での戦勝の後、鄧悉ら功臣の実力を恐れた簡定帝は阮夢荘の中傷の言葉を聞き入れて、鄧悉と阮景真の二人を誅殺したため、蜂起は徐々に分裂していった。 この暴挙に激怒した鄧容(中国語版)(鄧悉の子)や阮景異(中国語版)(阮景真の子)らは、多くの軍とともに乂安に入り、簡定帝の甥である陳季拡(チャン・クイ・コアン)を皇位につけた(重光(チュンクアン)帝)。清華から化州へと移動し、簡定帝を上皇にして中枢から排除した。結局、簡定帝は明軍に捕らえられ、金陵(現在の南京)に送られて処刑された。 しかし鄧悉ら名将の死は痛手であった。1411年半ば、増援を受けた明軍は次第に攻勢を強めて清華に進攻を開始し、大越軍は順化へと撤退した。1413年8月、順化は明軍の攻撃を受け、大越軍は明軍の前に四散していった。重光帝・鄧容・阮景異は次々に捕らえられ、蜂起は失敗に終わった。これによって大越軍は事実上壊滅し、後陳朝は一時滅亡した。 重光帝は燕京(現在の北京)に送られる途中、1414年に投水して死んだという説もあるが、実際には永楽帝によって処刑されたと見られている。 その後、黎利という英雄が1418年に平定王を称して反明の兵を挙げた。1424年に永楽帝が崩御したことにも助けられて明軍に連戦連勝。明では永楽帝崩御の翌年に次代の洪熙帝が崩御し、高煦の乱(中国語版)が起こるなどの事情もあって次第に安南支配は弱体化していき、1427年に黎利は遂に明軍を安南からの撤兵に追い込んだ。 こうして安南の実質的支配者となった黎利は、丐者の子で、芸宗の甥を称していた胡翁(陳暠)を擁立して(天慶帝)、自らは裏で権力を握った。1427年に天慶帝は明より安南国王(中国語版)に封じられた。ただしこれは王朝創設の時間稼ぎだったと考えられ、1428年に天慶帝を殺害した黎利は後黎朝を開き(太祖)、後陳朝は完全に滅んだ。
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