抗明闘争と滅亡への道とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 抗明闘争と滅亡への道の意味・解説 

抗明闘争と滅亡への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 03:53 UTC 版)

後陳朝」の記事における「抗明闘争と滅亡への道」の解説

簡定帝は反明勢力結集して明に抵抗したが、明軍圧倒的兵力物量などもあって苦戦した1408年初め乂安現在のゲアン省)に向けて進軍し、これに化州中国語版)(ホアチャウ、現在のトゥアティエン・フエ省)の鄧悉(中国語版)と、以前に升中国語版)(タンホア現在のクアンナム省)の官吏であった阮景真(中国語版)が呼応した12月大越軍は逋姑(ポーコー、現在のナムディン省イーイエン県イエンバン社(ベトナム語版))の船着場で鄧悉や阮景真らの奮戦もあって4明軍撃退したとされる(逋姑の戦いベトナム語版))。以来簡定帝たちの名声安南中に広がり多く人間大越軍に投じた。 しかし、逋姑での戦勝の後、鄧悉ら功臣実力恐れた簡定帝は阮夢荘の中傷言葉聞き入れて、鄧悉と阮景真の二人誅殺したため蜂起徐々に分裂していった。 この暴挙激怒した鄧容(中国語版)(鄧悉の子)や阮景異(中国語版)(阮景真の子)らは、多くの軍とともに乂安入り簡定帝の甥である陳季拡(チャン・クイ・コアン)を皇位につけた重光(チュンクアン)帝)。清華から化州へと移動し簡定帝上皇にして中枢から排除した結局簡定帝明軍捕らえられ金陵現在の南京)に送られ処刑された。 しかし鄧悉ら名将の死は痛手であった1411年半ば増援受けた明軍次第攻勢強めて清華進攻開始し大越軍は順化へと撤退した1413年8月順化明軍攻撃を受け、大越軍は明軍前に四散していった。重光帝・鄧容・阮景異は次々捕らえられ蜂起失敗終わった。これによって大越軍は事実上壊滅し後陳朝一時滅亡した重光帝燕京現在の北京)に送られる途中1414年に投して死んだという説もあるが、実際に永楽帝によって処刑されたと見られている。 その後黎利という英雄1418年平定王を称して反明の兵を挙げた1424年永楽帝崩御したことにも助けられ明軍連戦連勝。明では永楽帝崩御翌年次代洪熙帝崩御し、高煦の乱(中国語版)が起こるなどの事情もあって次第安南支配弱体化していき、1427年黎利遂に明軍安南からの撤兵追い込んだ。 こうして安南実質的支配者となった黎利は、丐者の子で、芸宗の甥を称していた胡翁(陳暠)を擁立して天慶帝)、自らは裏で権力握った1427年天慶帝は明より安南国王(中国語版)に封じられた。ただしこれは王朝創設時間稼ぎだったと考えられ1428年天慶帝殺害した黎利後黎朝開き太祖)、後陳朝は完全に滅んだ

※この「抗明闘争と滅亡への道」の解説は、「後陳朝」の解説の一部です。
「抗明闘争と滅亡への道」を含む「後陳朝」の記事については、「後陳朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「抗明闘争と滅亡への道」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「抗明闘争と滅亡への道」の関連用語

1
12% |||||

抗明闘争と滅亡への道のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



抗明闘争と滅亡への道のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの後陳朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS