抗日運動と民革結成
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1931年(民国20年)9月、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、何香凝は帰国し、抗日の社会運動を積極的に展開する。以後も宋慶齢や馮玉祥らと連携して蔣介石に抗日方針の貫徹を迫り、さらに1936年(民国25年)11月に「七君子事件」(抗日を主張する著名文化人7人が国民政府当局により突然拘禁された事件)が起きると、これへの抗議も展開した。 西安事変を経て第2次国共合作が成立してからも、何香凝は聯共の立場で政治活動・社会運動を継続し、さらに反蔣介石の立場をとる政治家たち、特に広東軍出身の李済深らとの連携を強めていく。日中戦争終結後の1946年(民国35年)秋、何香凝は広州での中国国民党民主促進会結成に参与した。まもなく蔣介石の圧迫を受けたため、香港に移って同会の活動を継続している。1948年(民国37年)1月には、中国国民党革命委員会(民革)の結成にも参加した。 1949年4月、何香凝は香港から北平(北京)に向かい、中国共産党の政権への参加意思を示した。同年10月、中華人民共和国が成立すると、何は中央人民政府委員会委員に任じられた。以後も中国人民政治協商会議全国委員会副主席、華僑事務委員会主任、中国美術家協会主席、全国人民代表大会常務委員会副委員長、民革主席、中華全国婦女聯合会名誉主席などの要職を歴任した。1972年9月1日、北京にて病没。享年94(満93歳)。南京市の孫中山陵傍で、廖仲愷とともに埋葬されている。
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