抗日華僑の摘発
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「日本占領時期のシンガポール」の記事における「抗日華僑の摘発」の解説
詳細は「シンガポール華僑粛清事件」、「双十節事件」、「陳嘉庚」、および「マラヤ人民抗日軍」を参照 イギリス領マラヤではイギリスがスズ鉱山などでの労働力として導入した中国人が急速に増え、イギリス領マラヤの人口は1940年にはマレー人228万人に対し華僑は235万人に達したが、華僑は支那事変以来蔣介石政権に通じて、抗日ゲリラ活動を行っていた。白人の植民地支配は、代理支配する人種を設定するものであり、アジアではインド洋からアフリカが印僑、ビルマから東は華僑が代理支配役を務めており、イギリス領マラヤの華僑は、常に植民統治者の側にあり、その番頭、仲介人となり、政治を白人が司るなら、経済は華僑が牛耳り、マレー人に対して白人以上に搾取者・収奪者となった。イギリス領マラヤは東南アジアでも、最も華僑に支配された地域であり、イギリス領マラヤで日本軍の占領を歓呼の声で迎えたのは、マレー民族主義(英語版)を掲げるマレー青年同盟(Kesatuan Melayu Muda; KMM)(英語版)だった。そのため日本軍は華僑を徹底的に排除し、マレー人とインド人を優遇し、日本軍は占領後の1942年2月から3月末にかけて抗日華僑の摘発を行った。これは、華僑の反日意識が強烈でこの華僑により組織された抗日華僑連合会(ダル・フォース)が、マレー戦、シンガポール戦において英軍にみられない戦意を示し、シンガポール陥落直前に解体されたものの、大量の武器弾薬を与えられてその後も市内やマレー半島においてゲリラ活動に従事し、日本軍入城前後に市内で略奪、暴行を働いたためだった。 日本軍は、イポー進撃の際に同地で発見した「抗日華僑名簿」及び、探偵局、警察署の記録、救出した邦人の進言などを基に「反抗華僑容疑者名簿」を作成して、主に抗日団体の指導者、抗日義勇軍人、共産党員などの抗日華僑の摘発を行ったが、短期間ということもあり調査は粗雑で関係の無い者も摘発された。こうして多数の華僑が処刑されたが、この事件によって華僑はますます抗日態度を固め、市内、マレー半島における抗日ゲリラ活動はその後も継続された。 華僑には民族的な優越感があり、在住国の民族との同化や融合を拒否しており、東南アジア諸民族と華僑との対立は、経済的・文化的なものを超え、民族対立にまで昂進しており、政治的変動のたびに、華僑には襲撃が加えられており、日本軍の華僑粛清は、このような民族間の緊張の中で行われ、日本軍の進軍が東南アジア諸民族から歓迎されたのは、支配者である白人を駆逐したからだけでなく、その代理支配を担当していた華僑を粛清したためである。
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