抗日活動
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李氏朝鮮時代に慶尚南道東萊郡で生まれる。著名な朝鮮語学者・周時経の下で学び、辞典の編纂にも参加した。 1919年の三・一独立運動に金枓奉は参加するが、日本によって運動が弾圧されると、金枓奉は上海に亡命し、同所において組織された大韓民国臨時政府の委員となり、中国を拠点に朝鮮独立運動を推進していく。また、李東輝などを通して共産党に入党し、社会主義系の独立運動家となった。1920年、朝鮮共産党(上海派)に入党。 1935年、義理の甥で義烈団団長として日本に抵抗した経歴がある金元鳳と共に朝鮮民族革命党を結成。1938年、朝鮮義勇隊の結成に参加。1942年4月30日、朝鮮義勇隊と共に中国共産党の本拠地延安に到着し、彭徳懐が出迎えた。金枓奉は政治活動の経歴が古く、人望があり、民族主義的カラーを持っていたため、中国共産党が取り組んだ国際統一戦線工作の理想的な対象であった。同年7月に朝鮮独立同盟を結成、委員長に就任した。中国共産党からは「朝鮮の革命指導者」「朝鮮革命の大先輩」と称賛されたが、中国共産党には加入しなかった。これは中国共産党にとって、党内に引き入れるよりも党外に留まらせた方がより大きな影響力を行使できる狙いがあったとされる。
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抗日活動
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日本と中華民国の戦争が続いていた上、親英的な住民も多かったこともあり、日本軍の香港占領に抵抗した香港住民は少なくなく、占領期間中、反日活動は絶えなかった。また、香港を脱出したイギリス軍や、中国共産党の支援による軍事活動も行われた。 英軍服務団(British Army Aid Group)は、中国内地に逃れたイギリス軍や香港政庁関係者によって1942年7月に設立された部隊で、本部を桂林に置き、香港における日本軍の情報収集やイギリス軍捕虜の脱走幇助、医薬品類の捕虜収容所への搬送などを支援した。 港九大隊は、中国共産党の配下で広東地方で活動していた「広東抗日遊撃隊」の協力の下、香港・新界の農民や漁民によって1942年2月に成立した抗日部隊で、香港のみならず、広東省を含めた抗日活動を展開した。港九大隊は、イギリス軍が撤退・降伏の際に遺棄した武器を入手し、香港・九龍の日本軍施設や警察署、啓徳空港への攻撃を行ったほか、捕虜の救出や、爆撃中に乗機が打ち落とされた連合軍のパイロットや、香港にとどまっていた連合国側の外国人の香港脱出を支援した。 1942年9月からは、中華民国内やイギリス領インド方面から飛来する連合国軍の爆撃機による空襲が開始された。主に日本軍の施設を目標としたが、誤爆も度々発生した。このうち最も被害の大きかったのは、1945年1月の湾仔市街への誤爆で、香港住民の死者は約1000人、負傷者約3000人に達したという。また同年4月の爆撃では、銅鑼湾にあった病院付近に爆弾が落ち、約490人の死者を出した。このほか、小学校にも誤爆があった。
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