国民政府・中華人民共和国での活動
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「于珍」の記事における「国民政府・中華人民共和国での活動」の解説
北京政府崩壊後、于珍も東北へ引き返し、1928年(民国17年)10月、東北辺防公署参議に任じられた。またこの頃、龍首山の三清観塔修理に大洋100元を寄進している。易幟後の翌1929年(民国18年)1月に張学良は士官派の粛清に乗り出し、楊宇霆と常蔭槐は殺害されたが、于は粛清を免れ、引き続き東北辺防軍司令長官公署参議を務めた。また、楊の死後、その財産は側近だった李景明と王子明が欲しいままにしていたため、張学良は于と憲兵司令官の陳興亜、威士毅らで清理委員会を設置、李景明と王子明を逮捕し、財産を楊宇霆の遺族に返した。1931年(民国20年)9月、満州事変が勃発すると于は抗日活動に従事した。この頃、土肥原賢二らから日本への協力を打診されたが拒否している。1937年(民国26年)7月に盧溝橋事件が勃発すると、于は引退して北平に隠居した。終戦後の1946年(民国35年)、蒋介石の国民政府により、軍事委員会委員長東北行営中将参議に起用されている。 1949年10月の中華人民共和国成立後、于珍は中国人民政治協商会議(政協)遼寧省委員会委員、同常任委員を歴任している。1956年には、特邀委員(特別招待委員)として政協全国委員会第2期会議に参加した。1959年秋、北京市内にて脳溢血のため死去。享年72。
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